19世紀ドイツを代表する作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)は革新的なオペラ作品を生み出しただけでなくその波乱に満ちた私生活でも知られています。
壮大な音楽劇「ニーベルングの指環」や「トリスタンとイゾルデ」を作曲した彼の生涯は複雑な人間関係によって彩られていました。
情熱的な友情、激しい恋愛、文学や哲学との深い関わりなどワーグナーを取り巻く人間模様を紐解くことで彼の音楽と人生への理解が一層深まるのではないでしょうか。
哲学者たちとの交流
ニーチェとの愛憎関係
ワーグナーの生涯で最も重要な知的交流の一つが哲学者フリードリヒ・ニーチェとの関係です。
当初若きニーチェはワーグナーとその音楽を熱烈に賞賛し彼を芸術の偉大な改革者と考えていました。ニーチェの最初の著書『悲劇の誕生』(1872年)はワーグナーの音楽に強く影響を受けたものでした。
しかし両者の関係は次第に険悪なものへと変わっていきます。ニーチェは次第にワーグナーの誇大妄想的な態度や反ユダヤ主義的思想に疑問を抱くようになりました。特に「ニーベルングの指環」4部作の完成後ワーグナーの芸術が本来の理想から逸脱したとニーチェは感じるようになったのです。
ニーチェがドイツ・ロマン主義を否定し自らの哲学的理想を優先させたことが二人の苦い別れとなりました。
皮肉なことにニーチェはワーグナーを批判する著作『ワーグナーの場合』を執筆したにもかかわらず後年「ワーグナーなしでは私の青春は耐えられなかっただろう」と述懐しています。天才同士の衝突とも言えるこの関係は芸術と哲学の歴史における有名なエピソードとなっています。
ショーペンハウアーからの哲学的影響
あまり知られていないのがワーグナーとアーサー・ショーペンハウアーの哲学との深い関わりです。
1854年ワーグナーはショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に出会いその悲観的な世界観に強く共鳴しました。
ショーペンハウアーは人間は不合理な欲望に駆られ避けられない苦しみを運命づけられているという考えを提唱していました。この思想はワーグナーの後期作品に大きな影響を与え「トリスタンとイゾルデ」や「パルジファル」では欲望からの解放や苦悩による救済といったテーマが探求されています。
実際のところワーグナーとショーペンハウアーは個人的に会ったことはなくショーペンハウアー自身はワーグナーの音楽をあまり評価していなかったという逸話もあります。それでもショーペンハウアーの思想はワーグナーの芸術観を根本から変え彼の作品に新たな深みをもたらしたのです。
複雑な愛の遍歴
ミンナ・プラーナーとの結婚生活
ワーグナーの私生活はスキャンダルに満ちており特に女性との関係は波乱万丈でした。1836年23歳のワーグナーは女優のミンナ・プラーナーと結婚します。しかし彼らの結婚生活は平穏なものではありませんでした。
二人の関係は双方の不貞行為や経済的困窮によって常に緊張していました。
ワーグナーは多額の借金を抱え債権者から逃れるために何度も移住を余儀なくされています。こうした不安定な生活の中ミンナは安定を求めワーグナーは芸術的理想を追求するという価値観の相違が二人の溝を深めていきました。
ミンナとの結婚中ワーグナーは裕福なパトロンであるオットー・ヴェーゼンドンクの妻マチルド・ヴェーゼンドンクとの不倫関係に陥ります。
この情熱的な関係は「トリスタンとイゾルデ」の創作に大きなインスピレーションを与えました。禁じられた愛と憧れを描いたこの作品にはマチルドへの思いが色濃く反映されているのです。
コジマとの愛と結婚
ワーグナーの最も有名な恋愛関係は有名な作曲家フランツ・リストの娘コジマとの関係でしょう。問題はコジマが当時ワーグナーの友人であり指揮者のハンス・フォン・ビューローの妻だったことです。
コジマはフォン・ビューローとの結婚中にワーグナーとの関係を始め1865年と1867年にワーグナーの子供を出産しています。この状況は当時の社会ではスキャンダラスなものでした。
1866年にミンナが死去した後ワーグナーとコジマは公然と関係を続け1870年にフォン・ビューローとの離婚が成立した後に正式に結婚しました。
コジマはワーグナーよりも24歳年下でしたが彼の人生に不可欠な存在となり彼の仕事を熱心に支援しました。またワーグナーの反ユダヤ主義的な信念も共有するようになりました。ワーグナーの死後コジマは彼の遺産を守るために生涯を捧げ彼の作品に特化したバイロイト音楽祭の運営を引き継ぎました。
彼女はワーグナーの死後50年間バイロイト音楽祭の指揮を執り1930年に死去するまでワーグナーの芸術的遺産の保護に尽力しました。
皮肉なことにこの献身がナチス・ドイツによるワーグナー音楽の政治的利用への道を開くことになるとは彼女も予想していなかったでしょう。
ワーグナーは実際にどれくらいの借金を抱えていたのですか?
ワーグナーは生涯を通じて膨大な借金に悩まされていました。
正確な金額は明らかではありませんが1864年にバイエルン国王ルートヴィヒ2世の援助を受けた時点で今日の価値で数億円に相当する借金があったとされています。彼は贅沢な生活スタイルを好み収入以上の出費を常にしていました。
ワーグナーとコジマの子供たちはその後どうなったのですか?
ワーグナーとコジマの間には3人の子供がいました。長女のイゾルデと次女のエヴァは婚外子として生まれ息子のジークフリートはワーグナーの正当な後継者となりました。
ジークフリートは父の死後バイロイト音楽祭の指揮者および総監督として活躍しワーグナーの遺産を守る役割を担いました。
ワーグナーの反ユダヤ主義はどの程度深刻だったのですか?
ワーグナーの反ユダヤ主義は彼の著作「音楽におけるユダヤ性」(1850年)などに明確に表れています。彼はユダヤ人の音楽家や作曲家を批判しドイツ文化への「悪影響」を非難していました。
しかし彼の反ユダヤ主義は当時のヨーロッパで広く見られた偏見の一部でもありました。重要なのはワーグナー自身はナチスの台頭を見ることなく1883年に死去していますが後にヒトラーが彼の音楽と思想に強く影響を受けたことです。
バイロイト音楽祭とは具体的にどのようなものですか?
バイロイト音楽祭はワーグナーが自分の作品を理想的な環境で上演するために1876年に創設した音楽祭です。
バイエルン州バイロイトに専用の劇場(バイロイト祝祭劇場)を建設し主にワーグナーのオペラ作品が上演されます。オーケストラピットが客席から見えないよう設計されているなどワーグナーの音楽美学に基づいた独特の特徴を持っています。
現在も毎年夏に開催され世界中のワーグナー愛好家が集まる一大イベントとなっています。
パトロンと政治的関係
バイエルン国王ルートヴィヒ2世との関係【シンデレラ城の王】
ワーグナーの職業上最も重要な関係の一つはバイエルン国王ルートヴィヒ2世との関係でした。ワーグナーの熱狂的なファンだったルートヴィヒは1864年に即位するとすぐにワーグナーをミュンヘンに招き彼のパトロンとなりました。
ルートヴィヒはワーグナーの多額の負債を解決し創作活動を続けるための経済的支援を提供しました。またワーグナーの夢であったバイロイト祝祭劇場の実現にもルートヴィヒの援助が不可欠でした。国王はワーグナーのために特別な公演を開催し彼の作品を上演するための理想的な環境を整えました。
しかしこの関係は必ずしも順風満帆ではありませんでした。ワーグナーの政治的活動やスキャンダラスな私生活は宮廷内やミュンヘン市民からの反発を招きました。
特にコジマとの不倫関係が公になるとルートヴィヒも彼をバイエルンから追放せざるを得なくなりました。それでも二人の友情は続きルートヴィヒは距離を置きながらもワーグナーへの経済的支援を継続しました。
ルートヴィヒはワーグナーの音楽に触発されて複数の壮大な城を建設しました。それがノイシュヴァンシュタイン城です。「白鳥の騎士ローエングリン」の物語にインスピレーションを得ているあのドイツの観光地で最も有名ともいえる白亜の城です。
そしての城はディズニーのシンデレラ城のモデルとして知られます。
こう考えるとディズニーランドにシンデレラ城がある当たり前の風景はワーグナーなくしてありえないともいえますね。
革命家としての一面と政治的関係
意外に思われるかもしれませんが若き日のワーグナーは熱心な革命家でした。1849年彼はドレスデンでザクセン王に対する蜂起に参加し失敗に終わるとヨーロッパ各地に亡命を余儀なくされました。
ドレスデン宮廷楽団のカペルマイスター(楽長)として比較的安定した生活を送っていたにもかかわらずワーグナーは革命運動に共感し積極的に参加しました。
その結果ドイツから追放され主にスイスで亡命生活を送ることになります。この亡命期間は約12年間続きその間ワーグナーはドイツに帰国できませんでした。
亡命中もワーグナーはドイツの政治思想に関心を持ち続け独自の革命的ナショナリズムを発展させました。彼はドイツ文化の優位性を信じその思想は後に反ユダヤ主義と結びついていきます。こうした政治的見解は彼の音楽作品や理論的著作にも反映されています。
ワーグナーの政治的立場は生涯を通じて変化しました。革命的な社会主義者から保守的なナショナリストへと変わり晩年はより神秘的で人種主義的な思想に傾倒していきました。こうした思想的変遷は彼の作品の発展とも密接に関連しています。
芸術的創造の源泉
文学と神話からの影響
ワーグナーの作品を理解する上で彼の文学や神話との深い関わりは欠かせません。彼は単なる作曲家ではなく自らのオペラの台本(リブレット)も執筆する総合芸術家でした。
古代ギリシアの悲劇作家特にアイスキュロスやソフォクレスの作品はワーグナーに大きな影響を与えました。彼はギリシア悲劇における音楽、演劇、詩の統合に感銘を受けそれを現代に蘇らせようと試みました。
この思想は「総合芸術作品」(ゲザムトクンストヴェルク)という彼の理論に結実し特に「ニーベルングの指環」四部作においてその極致を見ることができます。
またワーグナーはドイツ中世叙事詩『ニーベルンゲンの歌』やアイスランドの『ヴォルスンガ・サガ』との出会いによって「指環」作品の構想を得ました。さらにヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルツィヴァル」で語られるアーサー王伝説は彼の最後のオペラ「パルジファル」の基となりました。
このようにワーグナーは様々な文学的源泉から題材を得ながらもそれらを独自の視点で再解釈し神話と現代思想を融合させた新たな芸術作品を生み出していったのです。彼の作品が今日まで強い影響力を持ち続ける理由の一つはこの普遍的な神話と個人的な解釈の絶妙なバランスにあるのかもしれません。
音楽界での関係とライバル
ワーグナーの音楽界における関係も複雑でした。彼の革新的なアプローチは賛否両論を巻き起こし「ワーグナー派」と「反ワーグナー派」という対立を生み出しました。
特にヨハネス・ブラームスとの関係あるいは対立関係は有名です。ブラームスは音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックとともに「反ワーグナー」の旗手とみなされより伝統的な音楽形式を擁護しました。
ワーグナーの革新的で劇的な様式に対してブラームスはより古典的で絶対音楽的なアプローチを取りました。この対立は19世紀後半の音楽界を二分する大きな論争となりましたが実は二人が直接対面したことはほとんどなかったのです。
一方でワーグナーは義父となるフランツ・リストとは良好な関係を保ちました。リストはワーグナーの才能を早くから認め経済的にも芸術的にも支援しました。リストの娘コジマとの結婚はこの関係をさらに強固なものとしましたがワーグナーとリスト自身の音楽的アプローチは全く異なるものでした。
またユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィとの関係も注目に値します。ワーグナーは反ユダヤ主義者でありながら「パルジファル」の初演をレーヴィに任せました。このような矛盾はワーグナーの複雑な性格を物語っています。芸術的才能を認める一方で人種的偏見も持ち合わせていたのです。
個人的な側面と意外な関係
愛犬ロバーと家族との関係
ワーグナーの人間関係の中には意外な側面も存在します。その一つが愛犬のニューファンドランド犬ロバーとの深い絆です。ワーグナーはロバーを非常に大切にししばしば傍らに置いて作曲していました。
「ロバーは自分の音楽のためではなく自分自身を愛してくれる唯一の生き物だ」というワーグナーの言葉は彼の複雑な人間関係の中で単純な愛情に飢えていた一面を垣間見せています。
ロバーの死は彼に深い悲しみをもたらし後にワーグナーはロバーを庭に埋葬し「ここに私の忠実な友ロバーが眠る」という碑文を残しました。
一方実の家族との関係はそれほど良好とは言えませんでした。最初の妻ミンナを疎遠にしコジマとの間に三人の子供をもうけたワーグナーですが彼の自己中心的な性格は家族関係にも表れていました。経済的危機を救ってくれた兄弟にも無関心だったと言われています。
ただしコジマとの間に生まれた息子ジークフリートに対しては晩年のワーグナーは深い愛情を注ぎました。
ジークフリートの誕生を祝って作曲された「ジークフリート牧歌」はワーグナーの数少ない非オペラ作品の一つとして知られています。
異国での生活と文化交流
ワーグナーの生涯は移動の連続でした。革命活動により国外追放となった後彼はスイス、フランス、イタリア、オーストリアなど様々な国で生活しました。
特にパリでの経験は彼に大きな影響を与えました。1839年から1842年にかけての最初のパリ滞在は経済的に厳しいものでしたがフランスのグランド・オペラの壮大さは彼の創作に影響を与えました。
また1860年代のパリ滞在では「タンホイザー」のパリ・オペラ座での上演が大スキャンダルとなりフランス音楽界との複雑な関係を築くことになりました。
ワーグナーのイタリアへの旅もまた彼の創作に新たな視点をもたらしました。特にヴェネツィアでの滞在は彼に深い印象を残し後に「トリスタンとイゾルデ」の第2幕の創作に影響を与えたと言われています。
こうした異国での経験はワーグナーの視野を広げると同時にドイツ文化への彼の愛着をさらに強めることにもなりました。彼は各地の文化から学びながらも最終的には独自のドイツ的芸術の確立を目指したのです。
まとめ
リヒャルト・ワーグナーの人生は彼の音楽作品と同様に複雑で劇的なものでした。
哲学者ニーチェとの知的交流、コジマとの情熱的な恋愛、ルートヴィヒ2世との特別な関係など彼を取り巻く人間関係は彼の芸術的発展と切り離せないものです。
ワーグナーは人によっては矛盾していると評される人物でもありました。
革命家でありながら王族のパトロンを求め、反ユダヤ主義者でありながらユダヤ人の指揮者と協力し、家族をあまり顧みない一面がありながらも愛犬には深い愛情を注ぎました。
こうした彼の複雑な関係性と波乱に満ちた生涯は彼の音楽の理解を深める鍵ともなります。「トリスタンとイゾルデ」の情熱的な愛の表現は彼自身の禁断の恋に由来し「ニーベルングの指環」の神話的世界観は彼の政治的・哲学的思想を反映しているといわれます。