バロック音楽の巨匠J.S.バッハが残した数多くの作品の中でも、鍵盤音楽の玉手箱とも言える「平均律クラヴィーア曲集」。
この曲集は練習曲という域を超え、音楽理論と芸術性が調和した傑作として、今や300年近くにわたって音楽家たちを魅了し続けています。
24の調全てを網羅しそれぞれに前奏曲とフーガを配したコレクションは、バッハの天才的な構成力と技術を余すところなく伝えるものともいえます。
今回は西洋音楽の一つの礎ともいえるこの作品に迫ります。
平均律クラヴィーア曲集の基本構成と背景
「平均律」とは何か
まずそもそも「平均律クラヴィーア曲集」というタイトルについて。
この曲集のドイツ語原題「Das Wohltemperierte Clavier」は直訳すると「よく調律されたクラヴィーア(鍵盤楽器)のための曲集」という意味です。
ここでいう「よく調律された」とは「平均律(または近似的な平均律)に基づいた」という意味合いを持つものです。
では平均律とは何かというと、オクターブ(ドからドまでの8度)を12の半音に均等に分割する調律法です。
バッハ以前の時代には「純正律」や「中全音律」など様々な調律法が使われていましたが、これらの調律法では特定の調では美しく響く一方で別の調では不協和音が目立つという欠点がありました。そのため演奏できる調は限られていたのです。
平均律の登場によってあらゆる調で同じように演奏できるようになり作曲の可能性は大きく広がりました。
バッハはこの新しい調律法の可能性を示すために当時使われていた全ての長調と短調(それぞれ12調、合計24調)で曲を作りこれを「平均律クラヴィーア曲集」としてまとめたわけです。
2巻にわたる壮大な構成
「平均律クラヴィーア曲集」は全部で2巻から成り立っています。
第1巻は1722年に第2巻は約20年後の1742年頃に完成しました。各巻には24の調(ハ長調、ハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調…と続く)それぞれに対して前奏曲とフーガの組み合わせが1つずつ含まれているため全部で96曲(24調×2種類×2巻)という膨大な数になります。
各調の前奏曲とフーガは対をなしているものの、それぞれ独立した曲としても完成度が高いのが特徴です。
前奏曲は比較的自由な形式で書かれておりアルペジオや和音進行を基調としたシンプルなものから複雑な対位法的テクスチャーを持つものまで様々なタイプがあります。
一方のフーガは一つのテーマを複数の声部で模倣しながら展開していく厳格な形式の曲でバッハのフーガはその完成度の高さから「フーガの技法の教科書」とも称されています。
音楽的特徴と技術的魅力
多様性に富んだ前奏曲
「平均律クラヴィーア曲集」の前奏曲はその多様性において特筆すべきものがあります。第1巻のハ長調前奏曲はアルペジオの連続で構成された穏やかで美しい曲ですが同じ巻の嬰ヘ短調前奏曲は暗く複雑な対位法的テクスチャーを持っています。
各前奏曲はそれぞれの調の特性を活かし異なる感情や雰囲気を表現しています。技巧的にもシンプルで初心者にも弾けるものから高度な技術を要求する複雑なものまで幅広く鍵盤楽器の学習者にとって段階的な教材としても理想的です。
これらの前奏曲の中には元々即興演奏から生まれたと思われるものもありバッハの即興演奏の天才ぶりを垣間見ることができるのも魅力の一つです。
第1巻ハ長調前奏曲に付けられたアヴェ・マリアのメロディ(グノーによる後付け)はこの曲の美しさを広く知らしめる一因となりました。
フーガの複雑性と美しさ
フーガは対位法音楽の最高峰と言われる形式でバッハはこの形式を極限まで磨き上げました。
フーガでは「主題」と呼ばれる旋律が最初に提示されその後複数の「声部」(独立した旋律線)がこの主題を模倣しながら入ってきて複雑に絡み合いながら発展していきます。
「平均律クラヴィーア曲集」のフーガは多くの場合3声か4声で書かれていますが中には5声のものもあります。各声部が独立した旋律を持ちながらも全体として調和しているという音楽的な奇跡とも言えるこの技法をバッハは完璧なまでに使いこなしています。
演奏技術的にはフーガは非常に高度な要求をします。特に両手の独立性が求められ時には一つの手で複数の声部を弾き分けなければならない場面もあります。
このような複雑な曲を感情表現も失わずに演奏するには高い技術と音楽的理解が必要とされるのです。
演奏解釈の多様性
「平均律クラヴィーア曲集」は特定の楽器のために書かれたわけではなく当時存在した様々な鍵盤楽器(チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなど)で演奏されていたと考えられています。
そのため現代では主にピアノで演奏されることが多いものの、チェンバロなど様々な楽器での演奏も行われています。
演奏解釈についても多様性があり演奏家によって大きく異なる解釈がなされることがあります。特にテンポやアーティキュレーション(音の繋がり方)、装飾音の解釈などは演奏家の個性が出る部分です。
グレン・グールドの構築的で知的な演奏、アンドラーシュ・シフの抒情的な解釈、リヒテルの力強い演奏など同じ曲でも全く異なる魅力を持った演奏が存在するのです。
歴史的意義と後世への影響
教育的意図から傑作へ
バッハが平均律クラヴィーアを作曲した主な目的は教育的なものでした。
彼は自らの子供たちや弟子たちのために鍵盤演奏のテクニックを向上させ新しい調律法と全ての調における作曲・演奏の可能性を教えるための教材としてこの曲集を書きました。
曲集の第1巻の扉には「クラヴィーアを学ぶ熱心な若者の教育と特に勉強好きな者の暇つぶしのために」と記されておりバッハの教育的意図が明確に表れています。しかしこの「教材」は単なる練習曲の域をはるかに超え音楽史上に残る芸術的傑作となりました。
バッハの生前この曲集は出版されることはなく手書きの楽譜が弟子たちや音楽愛好家の間で筆写されて広まっていきました。バッハの死後50年近く経った1801年ようやく初めて印刷出版されたのです。
モーツァルトからショパンまで:偉大な音楽家たちへの影響
平均律クラヴィーアは後世の作曲家たちに計り知れない影響を与えました。
若きモーツァルトはウィーン滞在中にゴットフリート・ファン・スウィーテン男爵の家でこの曲集と出会いその複雑さと美しさに感銘を受けたといいます。この出会いはモーツァルトの後期作品におけるフーガへの関心と対位法的書法の発展につながりました。
ベートーヴェンも若い頃からこの曲集を熱心に研究し「これこそが私の日々のパン」と称したといわれています。彼の後期のピアノソナタやフーガを含む作品には明らかにバッハの影響が見て取れます。
ロマン派時代にはショパンが自分の「24の前奏曲」を作曲する際にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」の調の配列を参考にしたと言われています。またメンデルスゾーンやシューマンらもバッハ復興の先駆者としてこの曲集の重要性を広く認識させる役割を果たしました。
平均律クラヴィーア曲集に関するよくある質問
初心者でも弾ける「平均律クラヴィーア曲集」の曲はありますか?
いくつかの前奏曲は比較的シンプルで初心者でも挑戦できるものといえるでしょう。
特に第1巻のハ長調前奏曲は技術的にはさほど難しくないためバッハ入門としてよく使われます。ただし音楽的な表現となると単なる音の羅列にならないよう注意が必要です。他にも第1巻のホ短調前奏曲やヘ長調前奏曲なども比較的取り組みやすい曲としておすすめできます。
「平均律クラヴィーア曲集」の中で最も難しい曲はどれですか?
技術的に最も難しい曲は人によって意見が分かれますが第2巻の嬰ヘ短調フーガ(5声)や変ロ短調フーガなどは声部の多さや複雑さから特に難易度が高いとされています。
また第1巻の変ロ短調前奏曲とフーガの組み合わせも技術的にも解釈的にも非常に高度な曲として知られています。ただ「難しさ」は純粋な技術的側面だけでなく音楽的理解や表現の難しさも含むため一概にどの曲が最難関とは言い切れない面もあります。
バッハは本当に平均律を使っていたのですか?
この点については議論があります。
バッハが厳密な意味での「平均律」(全ての半音が数学的に完全に等間隔な調律法)を採用していたかどうかは不明です。当時は「良く調律された(wohltemperiert)」と呼ばれる様々な調律法がありこれらは現代の平均律に近いものの各調に微妙な個性を持たせるものでした。
バッハが実際に使っていたのはおそらくこうした「ほぼ平均的な」調律法の一種だったと考えられています。
重要なのはどんな調律法であれ全ての調で演奏可能にするという原理的な点で、その実証としてこの曲集が作られたということかもしれません。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」の違いは何ですか?
両者はバッハのフーガ作品集ですが目的と構成が異なります。
平均律クラヴィーア曲集は24の調それぞれに前奏曲とフーガのペアを作り全ての調での演奏可能性を示す教育的・実用的な曲集です。
一方「フーガの技法」(Die Kunst der Fuge)は単一の主題から派生した様々なフーガとカノンを集めたより抽象的で理論的な作品です。
フーガの技法は特定の楽器を指定せずむしろフーガ作法の集大成として構想された晩年の未完の大作であり演奏よりも研究目的の側面が強いとされています。
バッハの平均律クラヴィーア曲集の演奏・鑑賞の楽しみ方
様々な名演奏家の解釈を比較
「平均律クラヴィーア曲集」の魅力の一つは同じ曲でも演奏家によってまったく異なる解釈が可能な点です。
カナダのピアニスト、グレン・グールドは独特のアーティキュレーションと明晰なテクスチャーで知られ彼の演奏はしばしば型破りながらも説得力があります。
対照的にスヴャトスラフ・リヒテルの演奏は荘厳でドラマティックな性格を持ち特に第1巻の変ロ短調前奏曲とフーガにおける彼の解釈は伝説的です。
アンドラーシュ・シフやエドウィン・フィッシャーなど他の著名なピアニストたちもそれぞれ独自の「バッハ像」を提示しています。
こうした様々な演奏を比較して聴くことでバッハの音楽の多面性と深さをより実感することができるでしょう。またチェンバロなど原典楽器による演奏もバッハの時代の音響を体験する上で貴重な視点を提供してくれます。
解釈を見つける
ピアノを学ぶ人にとって「平均律クラヴィーア曲集」は避けて通れない重要なレパートリーです。この曲集に取り組む最大の喜びの一つは自分なりの解釈を見つけていく過程にあります。
バッハの楽譜にはテンポや強弱、アーティキュレーションなどの指示がほとんど書かれていないため演奏者は自分で音楽的判断を行う必要があります。これは一見難しい課題のようですが実は自由に解釈できる余地が大きいということともいえるかもしれません。
初心者の方はまずハ長調やト長調など比較的シンプルな前奏曲から始め徐々に複雑な曲へと進むとよいでしょう。フーガに取り組む際はまず各声部を個別に練習することで複雑な構造を理解しやすくなります。
大切なことの一つはテクニカルな面だけでなく各曲の感情的な側面や音楽的な流れを感じ取ることではないでしょうか。バッハの音楽は論理的であると同時に深い感情表現に満ちています。両面を大切にしながら演奏することがシンプルながら真髄といえるかもしれません。
まとめ
「平均律クラヴィーア曲集」は単なる教則本として始まり音楽史上最も重要な作品の一つとなりました。
全24調の可能性を示すという実用的な目的から生まれたこの曲集はバッハの天才的な作曲技法と深い音楽性によって時代を超えた芸術作品へと昇華したのです。
テクニカルな挑戦だけでなく音楽的解釈の深さを求められるこれらの曲は音楽を聴く者、音楽を学ぶ者、両者にとって、永遠の探求の対象といえるかもしれません。