【マネ、ルノワールみんな友達】ドガ【印象派じゃない?】

ドガ、マネ、モネ、ルノワール 美術

エドガー・ドガ(1834-1917)は印象派の主要な画家でありながら常に印象派から一歩引いた位置に立ち続けた少し謎めいた芸術家といえます。

バレリーナやカフェの情景を鮮やかに描き出した彼は芸術的才能と同じくらい複雑な性格の持ち主として知られています。飄々とした態度と鋭い批評眼を持ち親しい友人たちとさえも複雑な関係を築いていたドガの人間関係は彼の芸術と同様に多層的でした。

本記事では印象派運動における中心人物でありながら印象派という言葉を好まなかったドガの同時代の芸術家たちやモデルたちとの交流そして彼の孤独な晩年について探ります。

パリの芸術サロンとドガの交友関係

カフェ・ゲルボワとバティニョールのグループ

19世紀後半のパリ、バティニョール地区、今はなきカフェ・ゲルボワは後に印象派として知られることになる若い芸術家たちの交流の場でした。

このカフェの奥の部屋はエドゥアール・マネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、クロード・モネらが定期的に集まり新しい芸術について熱く議論する場となっていました。

カフェのオーナーであるゲルボワ氏自身が芸術家たちと親しい関係にあり特にマネのアトリエが近かったことから自然とこの場所が集会所となったようです。

彼らの交流は単なる社交の場に留まらず1863年のサロン・デ・ルフュゼ(落選者展)の開催といった実際の行動につながりました。当時のアカデミックな美術界の保守的な方針に対する反発が彼らを結びつける重要な要素だったんですね。

ドガはこのグループの中で独特の存在感を放っていました。彼は他の画家たちとは異なりアトリエでの制作を好み印象よりも構図や線を重視するスタイルを貫きました。

そのため「印象派」という呼称に対しても違和感を持ち自らを「リアリスト」あるいは「インディペンデント(独立派)」と考えることを好んでいたようです。

ラ・ヌーベル・アテネとパリの知的生活

カフェ・ゲルボワと並んでドガが頻繁に通ったのがピガール広場近くの「カフェ・ドゥ・ラ・ヌーベル・アテネ」でした。

パリ9区に位置するこの地区はギリシャ復興様式の建築が多いことから「新アテネ」と呼ばれていました。19世紀前半にはショパンやジョルジュ・サンド、ドラクロワといったロマン派の芸術家たちが活動した場所としても知られています。

ここでドガは作家や批評家、他の芸術家たちと交流を深めました。特に作家でオペラの台本作家でもあったルドヴィック・ハレヴィとの親交は、ドガがバレエやオペラの世界に興味を持つきっかけになったと考えられています。

ドガの代表的なモチーフであるバレリーナの作品の背景には、こうした知的交流があったわけです。

ドガは絵を描く技術に長けていただけでなく文学や音楽、演劇にも造詣が深く幅広い教養を持った人物でした。若い頃にナポリで法律を学んだ経験もあり、その知的好奇心は生涯を通じて彼の創作活動を支える重要な要素となったのです。

印象派の画家たちとの複雑な関係

マネとドガ – 敬愛と軋轢の間で

ドガとエドゥアール・マネの関係はお互いへの敬意と衝突が交錯する複雑なものでした。

二人の出会いは1861年、ルーヴル美術館でスペインの巨匠ベラスケスの絵を模写していた時のことです。この運命的な出会いをきっかけに二人の間には芸術的な興味と相互尊敬に基づく友情が芽生えました。

マネの革新的な作品「オランピア」はドガを含む多くの若い画家たちに大きな影響を与えました。

ドガはマネの大胆さを高く評価し、彼が美術界の既成概念に挑戦する姿勢に敬意を表していました。一方でマネも、ドガの卓越した描写力と独自の視点を認めていたようです。

しかし二人の友情に亀裂が入る出来事も起こりました。有名なエピソードとして、ドガがマネとその妻の肖像画を描いた際、出来上がった作品にマネが満足せず怒って絵の一部を切り取ってしまったというものがあります。

激怒したドガは絵の返還を要求し、一時期マネとは口をきかなくなったとも言われています。

興味深いことに、このような不和があったにもかかわらず、ドガはマネの死後彼の作品を熱心に収集し続けました。晩年のドガのコレクションにはマネの作品が数多く含まれていたのです。これは個人的な確執を超えた芸術的敬意の表れと言えるでしょう。

メアリー・カサットとの特別な友情

ドガと女性画家メアリー・カサットの関係は19世紀の芸術界における稀有な男女の友情として特筆すべきものです。

当時、女性の芸術家が専門家として認められることは難しかった中、ドガはカサットの才能を高く評価し彼女を印象派の展覧会に招待するほどでした。

二人の友情は主に知的なものであり芸術への献身という共通点に根ざしていました。カサットはドガの技術を尊敬し、ドガはカサットの感性を高く評価していたのです。互いの作品には時として類似したモチーフや構図が見られ芸術的な影響を与え合っていたことがうかがえます。

ドガはカサットに版画技術を教え、彼女が版画作品を制作する上で重要な指導者となりました。二人で共同作業をすることもあり、その親密な芸術的交流は互いの作品スタイルに明らかな影響を与えています。

彼は一般的に女性嫌いと見られることもありましたが、カサットとの関係はそうした一般的なイメージとは一線を画するものでした。彼女の才能に対する純粋な敬意が二人の長年にわたる友情の基盤となっていたのでしょう。

ルノワールとの友情と対立

ドガとピエール=オーギュスト・ルノワールの関係も芸術観の違いによって複雑な展開を見せました。

初期には二人はカフェ・ゲルボワでよく一緒に絵を描き親しい交流を持っていました。当時のパリの情景や人々の日常生活を描くという点で二人には共通する興味がありました。

しかし時が経つにつれルノワールの画風は次第に古典的な方向へと変化していきました。特に1880年代以降、彼はより伝統的な技法や題材に関心を示すようになります。この変化をドガは理解できず、むしろ否定的に捉えていたと言われています。

一方でルノワールはドガの頑なまでの芸術的信念を尊重していたようです。二人の芸術観は次第に乖離していったものの、お互いへの敬意は失われませんでした。1919年にルノワールが亡くなった時、彼のコレクションにはドガの作品がいくつか含まれていたといいます。

印象派運動の中でもこうした芸術家同士の個人的な関係や芸術観の相違は彼らの作品の多様性に反映されています。特に年齢を重ねるにつれてそれぞれが独自の道を模索していった過程は興味深いものがありますね。

モデルとパトロンとの関係

バレエダンサーとの複雑な関係

彼の作品で最も印象的なモチーフといえばバレリーナたちの姿でしょう。

彼はパリ・オペラ座のバレエ団に頻繁に通い舞台上だけでなくリハーサル中や舞台裏のダンサーたちの姿を捉えました。このアプローチはしばしば「覗き見的」と批判されることもありましたが、実はドガのまなざしの中には彼女たちに対する深い共感が込められていたのです。

19世紀後半のバレエダンサーたちの社会的地位は決して高くありませんでした。

多くの若い女性たちは貧しい家庭の出身でオペラ座のダンサーとして過酷な訓練と低賃金の現実に向き合っていました。ドガはそうした華やかな舞台の裏側にある厳しい労働の実態を描き出そうとしたのです。

彼の作品に登場するバレリーナたちの姿は典型的な優美さだけでなく疲労や緊張、時には痛みさえも感じさせるリアルなものでした。

「十四歳の小さな踊り子」(1881年)という彫刻作品は少女ダンサーの等身大の像で当時としては非常に斬新なアプローチでした。この作品は写実的過ぎるという批判を受けましたが、ドガはバレエダンサーたちの現実を正直に表現することにこだわったのです。

そしてドガ自身「私は踊り子たちの美しさではなく彼女たちの動きを表現したかった」と語っていたと伝えられています。このことからも彼がバレエダンサーたちを単なる美の対象としてではなく身体表現のアーティストとして尊重していたことがわかるでしょう。

パリのオペラ座内部をこちらの動画で雰囲気を是非。

Paris at Night: Going to the BALLET at the GARNIER OPERA HOUSE

画商とパトロンとの緊張関係

多くの同時代の芸術家とは異なりドガは比較的裕福な家庭出身であったため生活のために絵を売る必要に迫られることは少なかったと言われています。

このことは彼が美術市場や画商との関係においてある程度の自由と独立性を保つことができた要因の一つでした。

ドガは自分の作品を誰に売るかについて非常に慎重で時には気難しいほどでした。彼は商業的な成功よりも芸術的な独立性を重視し、作品の質や自分の芸術的ビジョンを損なうようなことには強く反発しました。そのため画商との間で衝突が生じることも珍しくなかったようです。

彼は自分の作品が適切に理解され評価されることを重視しました。単に金銭的な価値だけを見る収集家ではなく芸術的な理解のある買い手を選ぶ傾向がありました。こうした彼の姿勢は当時の芸術市場において非常に特異なものだったと言えるでしょう。

しかし晩年、ドガの経済状況は複雑になりました。弟アキーユの事業失敗による借金返済のために自分のコレクションの一部を売却せざるを得なくなったのです。彼が大切に集めていたマネやエル・グレコ、ドラクロワなどの作品との別れは彼にとって大きな痛手だったと想像できます。

晩年のドガ – 孤独と創作

視力の衰えと芸術スタイルの変化

ドガは50代頃から視力の問題に悩まされるようになりました。

次第に進行した目の病気(網膜疾患と考えられています)によって彼はかつてのような精密な描写が難しくなっていきました。しかし彼はこの困難を乗り越えむしろ新たな表現方法を模索するきっかけとしたのです。

視力の低下とともにドガの作品は以前よりも大胆でより抽象的な方向へと変化していきました。色彩はより鮮やかに、線はより簡略化され、全体として印象主義的な要素が強くなりました。皮肉なことに彼が当初距離を置いていた印象派的な手法に晩年になって近づいていったと言えるかもしれません。

また視力の問題からドガは絵画から彫刻へと活動の場を広げていきました。触覚を頼りに立体作品を制作することで彼は視覚の限界を超えようとしたのです。「十四歳の小さな踊り子」をはじめとする彼の彫刻作品は2次元から3次元へとドガの芸術が拡張していった証と言えるでしょう。

さらに彼は晩年、写真にも関心を持つようになりました。彼は友人や知人を被写体にした写真を多く撮影しそれらを絵画制作の参考にしたと言われています。視力が低下する中での新たな創作ツールの模索だったのかもしれません。

皮肉屋としての評判と人間関係の変化

晩年のドガはますます皮肉屋として知られるようになりました。鋭い観察眼と辛辣な言葉で知られ時に周囲の人々を遠ざけることもありました。友人の作品に対する厳しい批評や芸術の流行に対する辛らつなコメントは彼の周囲の人間関係に影響を与えたようです。

視力の低下は彼の社交生活にも影響を及ぼしました。以前のようにカフェで仲間と語り合うことが難しくなり次第に引きこもりがちになっていったのです。また彼特有の強い意見は時に友人との関係を複雑にすることもありました。

しかし晩年のドガが完全な孤独だったというわけではありません。画家のアルベール・バルトロメや彫刻家のバルテレミー・ピロンなど親しい友人たちとの交流は継続していました。彼らとの文通からは芸術への情熱を失わなかったドガの姿がうかがえます。

また弟ルネとの関係も複雑でした。ルネが盲目の妻と離婚したことでドガは不仲となりその後ルネの事業失敗によって多額の借金を背負うことになりました。こうした家族との葛藤も晩年のドガの心境に影響を与えたことでしょう。

写真家としてのドガ – あまり知られざる一面

ドガの多面的な芸術活動の中でも写真家としての一面はあまり知られていません。彼は1880年代から1890年代にかけて多くの写真作品を残しました。

これらの写真は単なる記録ではなく彼の芸術的視点が明確に表れた作品となっています。

ドガは人物写真に力を入れ友人や知人を自然な姿で捉えることに心血を注ぎました。照明や構図に工夫を凝らし絵画と同様に洗練された美的感覚を写真にも持ち込もうとしたのです。

これらの写真作品が一般に知られるようになったのはドガの死後かなり経ってからのことでした。1970年代になって彼の写真コレクションが「発見」され新たな研究対象となったのです。これにより画家や彫刻家としてだけでなく写真家としてのドガの才能も再評価されるようになりました。

彼の写真には絵画作品と共通する特徴が多く見られます。日常の一瞬を切り取るような構図や光と影の効果的な使用などドガ独自の美学が写真にも反映されています。

こうした写真の実践は視力が低下する中で彼の芸術的感覚を鋭く保つ助けになったのかもしれません。

Q&A エドガー・ドガ

ドガは本当に女性嫌いだったの?

ドガが女性嫌いだったという評判はありますが実際にはもう少し複雑です。彼は結婚せず女性を時に厳しく描写したことから女性差別的だという印象を与えることがありました。しかしメアリー・カサットのような女性芸術家の才能を高く評価し彼女と長年にわたる友情を育んでいました。

バレエダンサーの描写も単に女性を客体化するものではなく彼女たちの労働や苦労を含めた現実を描こうとするリアリズムの表れと見ることもできます。彼の私生活については謎が多く晩年の孤独な生活や皮肉屋としての評判が女性嫌いというイメージを強めたのかもしれません。

ドガはなぜ「印象派」という言葉を好まなかったの?

ドガは「印象派」という言葉が暗示する即興的で感覚的な絵画制作のアプローチに違和感を持っていました。

彼自身は綿密な計画と精密な描写を重視し自らを「リアリスト」あるいは「インディペンデント(独立派)」と考えていました。

また野外で光と自然の印象を捉えることに重点を置く同僚たちと異なりドガはアトリエでの制作を好み線と形、構図に重きを置いていました。ドガは印象派展に参加しその運動に貢献しましたが美学的・技術的には常に独自の道を歩んでいたのです。

ドガの作品でバレリーナ以外の重要なモチーフはある?

バレリーナが最も知られていますがドガには他にも重要なモチーフがあります。

競馬の情景と馬は彼が繰り返し描いたテーマで動きの表現に対する彼の関心を示しています。また洗濯女や帽子屋など当時の労働者階級の女性たちを描いた作品も多くこれらは彼のリアリズムへの傾倒を表しています。

さらにカフェやオペラの観客などパリの社交界の様子を描いた作品や晩年に増えた裸婦像も重要なモチーフです。これらの多様な主題を通じてドガは19世紀パリの社会的横断面を提示するとともに人体の動きや日常の姿勢に対する鋭い観察眼を示しています。

ドガの視力問題は本当に彼の芸術スタイルに影響した?

はいドガの視力低下は彼の芸術スタイルに明確な影響を与えたと考えられています。

50代頃から進行した網膜疾患により彼は次第に精密な描写が難しくなりました。この問題に対応するため彼の作品はより大胆で色彩が鮮やかになり形態もより単純化されていきました。

また視力の問題は彼のメディア選択にも影響し絵画から彫刻へと活動の場を広げる一因となりました。触覚を使って作品を形作ることで視覚の限界を超えようとしたのです。さらに写真への関心も視力が低下する中での新たな表現手段の模索だったと考えられています。逆説的にこの困難が彼の芸術的視野を広げより革新的な表現へと導いたとも言えるでしょう。

まとめ

エドガー・ドガは印象派の中心的人物でありながら常に独自の立場を保ち続けた芸術家でした。

彼の人間関係はマネやカサット、ルノワールといった同時代の芸術家たちとの間に深い敬意と時折の衝突を含む複雑なものでした。

バレエダンサーのようなモデルたちとの関係も単なる観察者を超えた共感と理解に根ざしていたことがわかります。

さらにドガの芸術的ビジョンは彼の社会的関係にも影響を与えました。彼は美術市場の商業的側面に対して批判的な姿勢を取り芸術的完全性を何よりも重視しました。この姿勢は時に彼を孤立させることもありましたが妥協のない芸術的探求を可能にした要因でもありました。

晩年の視力低下という困難にもかかわらずドガは創作を続け、むしろその制約を新たな表現方法の開拓へとつなげていきました。そして彼の孤独は部分的には彼自身の個性的な選択とも考えられ、芸術的独立性を守るための代償だったのかもしれません。

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