ベートーヴェンの交響曲第9番、通称「第九」は単なる音楽作品の枠を超え人類の普遍的な希望と連帯の象徴となっています。
全く耳が聞こえない状態で作曲された壮大な交響曲は最終楽章で初めて人間の声を取り入れシラーの詩「歓喜の歌」を高らかに歌い上げることで音楽の新たな地平を切り開きました。今回はこの第九の誕生秘話から音楽的革新、そして文化的影響までを詳しく解説します。

第九の誕生
無音の世界で生まれた奇跡
ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125は1822年から1824年にかけて作曲されました。この時期ベートーヴェンはほぼ完全に聴力を失っていたという事実がこの作品の偉大さをより際立たせています。想像してみてください。作曲家にとって最も大切なはずの「聴く」という能力を失った状態で自分の心の中に響く音だけを頼りに西洋音楽史上最も複雑で革新的な作品の一つを創り上げたのです。
この状況は画家が目を失って絵を描くようなものでした。しかし彼はその障壁を乗り越えむしろ内なる音楽的想像力を解き放ったといえるでしょう。彼は音を「聞く」のではなく「考える」ことで作曲したのです。
晩年のベートーヴェンは特別な骨伝導の装置を使って作曲していたとも言われています。ピアノに取り付けた金属棒を歯で噛むことでわずかに振動を感じ取っていたのだとか。絶望的な状況の中でも創作への情熱を失わなかった彼の姿勢は多くの人々に今なお勇気を与え続けているのではないでしょうか。
伝説となった初演の夜
交響曲第9番の初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートル劇場で行われました。この時ベートーヴェンは自ら指揮台に立ちましたが実際の指揮は当時の著名な指揮者ミヒャエル・ウムラウフが担当していました。聴力を失ったベートーヴェンはオーケストラとのリハーサルも満足に行えず演奏は必ずしも完璧とは言えないものだったようです。
しかしこの初演で起こった感動的な出来事は音楽史に永遠に刻まれることになりました。曲が終わった後もベートーヴェンは背中を聴衆に向けたまま指揮を続けていました。音が聞こえないため演奏が終わったことに気づかなかったのです。
このときアルト・ソリストのカロリーネ・ウンガーが彼の肩を優しくたたき聴衆の方を向かせました。振り返った彼の目に映ったのは総立ちで熱狂的な拍手を送る聴衆の姿でした。この瞬間ベートーヴェンは自分の音楽が人々の心に届いたことを知り深い感動に包まれたと伝えられています。
この初演には当時のウィーンの一般市民から貴族、知識人まで様々な階層の人々が集まりました。チケットの値段は記録に詳しく残されていませんが社会的地位によって座席が分けられそれに応じた価格設定がなされていたようです。それでも劇場は満員となりベートーヴェンの音楽が社会階層を超えて広く愛されていたことがうかがえます。
「第九」の革新性
4つの楽章から見る音楽的発展
交響曲第9番は従来の交響曲の概念を大きく拡張しその後の音楽史に多大な影響を与えました。全4楽章から成るこの大作を詳しく見ていきましょう。
第1楽章(アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソ)は神秘的な空虚さから始まりやがて激しいドラマへと展開します。ニ短調の暗く不穏な雰囲気が支配的ですがその中にも光の瞬間が垣間見えます。この楽章の長さと複雑さはベートーヴェンの野心的なビジョンを反映しているといえるでしょう。
第2楽章(モルト・ヴィヴァーチェ)は疾走感あふれるスケルツォでティンパニの力強いリズムが特徴的です。このリズミカルな楽章はダイナミックな対比と意外性に満ちており聴き手を息つく暇なく引き込みます。
第3楽章(アダージョ・モルト・エ・カンタービレ)では穏やかで瞑想的な雰囲気が広がります。美しい旋律が弦楽器を中心に歌い上げられまるで時が止まったかのような深い精神性を感じさせます。この叙情的な楽章は次に来る爆発的なフィナーレへの静かな準備とも言えるでしょう。
そして第4楽章(フィナーレ:プレスト)は交響曲史上最も革新的なフィナーレの一つです。前の楽章のテーマを否定するかのような不協和音で始まりやがて有名な「歓喜のテーマ」へと導かれます。そして交響曲初の試みとして合唱と独唱が加わりシラーの「歓喜の歌」を壮大に歌い上げるのです。
「歓喜の歌」の誕生と意味
交響曲第9番のフィナーレで使用されている「歓喜の歌」(An die Freude)はドイツの詩人フリードリヒ・シラーによって1785年に書かれました。啓蒙主義の理想を反映したこの詩は人類の普遍的な結束と友愛を謳い上げています。
ベートーヴェンはこの詩に若い頃から強く惹かれ20代のうちに曲をつけることを検討していたといわれています。しかし実際に交響曲に取り入れるまでには数十年を要しました。彼が最終的にこの詩を選んだのはその普遍的なメッセージに自身の人道主義的理想を見出したからでしょう。
「歓喜の歌」の有名な一節「すべての人は兄弟となる」(Alle Menschen werden Brüder)はベートーヴェンの時代においては革命的な考え方でした。身分制度が残る社会においてすべての人間の平等と友愛を訴えるこのメッセージは政治的にもラディカルな響きを持っていたのです。
この楽章の音楽的構造も非常に革新的です。最初に弦楽器だけで「歓喜のテーマ」が提示され次第に楽器が加わって変奏されていきます。そして突然バリトン独唱が「おお友よこのような音ではない!もっと喜ばしくもっと喜ばしい音を響かせよう!」と歌い出し合唱へと発展していくのです。
文化的影響と現代への遺産
世界を結ぶ普遍的なシンボルへ
ベートーヴェンの第九は時代や国境を超えて様々な文脈で重要な役割を果たしてきました。その最も顕著な例が「歓喜の歌」のメロディーが欧州連合(EU)の公式国歌として採用されていることでしょう。1972年に欧州評議会がこのメロディーを選んだのはヨーロッパの統合と平和の理想を表現するのに最もふさわしいと考えたからです。
政治的な場面でもこの曲は重要な役割を果たしてきました。1989年のベルリンの壁崩壊を祝う演奏会ではレナード・バーンスタイン指揮のもと「自由」を意味する「Freude」(喜び)を「Freiheit」(自由)に変えて演奏されました。また1989年の天安門事件では学生たちがこの曲を自由と民主主義のシンボルとして流しました。
日本では年末に第九を演奏する「第九」コンサートが伝統となっています。特に1918年、第一次世界大戦中に中国の青島(当時はドイツ領)で捕虜となったドイツ兵が徳島県の板東俘虜収容所で演奏したことがこの伝統の始まりとされています。
捕虜たちに人道的な扱いをした収容所長・松江豊寿の理解のもと行われたこの演奏会は戦時中でも音楽が人々を結びつける力を持つことを示した感動的なエピソードとして知られているのです。
現代音楽への影響と再解釈
「第九」は古典音楽の枠を超えて様々な音楽ジャンルに影響を与え続けています。「歓喜のテーマ」はクラシック音楽では当然のことながらポップス、ロック、ジャズ、さらには電子音楽まであらゆるジャンルでアレンジされ取り入れられてきました。
例えば1970年代のロックバンド「エレクトリック・ライト・オーケストラ」は「Roll Over Beethoven」という曲で「第九」のモチーフを引用しました。また日本のロックバンド「X JAPAN」の「ENDLESS RAIN」では「第九」の影響が感じられるハーモニーが使われています。
デジタル時代においても第九の重要性は失われていません。CD規格の開発において当時のソニーの会長だった大賀典雄が「第九を最後まで収録できる長さにしたい」と主張しCDの長さを74分に決定したというエピソードは有名です(ただしこの話の真偽については諸説あります)。
Q&Aコーナー
第九の演奏時間はどれくらい?
一般的に65分から75分程度ですが指揮者の解釈によって変わります。特に第3楽章(アダージョ)の演奏時間には大きな違いが出ることがあります。
少し有名どころですが例を挙げると、カール・ベームの指揮では約65分、ヘルベルト・フォン・カラヤンの1977年の録音では約66分、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのバイロイト録音(1951年)では約74分となっているようです。
第九は本当にベートーヴェンの最後の交響曲ですか?
はい、完成した交響曲としては第九が最後です。しかしベートーヴェンは第10番の構想を持っておりいくつかのスケッチも残されていました。これらのスケッチをもとに近年では人工知能を活用して「第10交響曲」を完成させる試みも行われています。
「第九の呪い」って何?本当?
「第九の呪い」とは作曲家が9つの交響曲を書いた後に死ぬという迷信です。ベートーヴェンが第9番を最後に亡くなったほかブルックナー、ドヴォルザーク、マーラー、ショスタコーヴィチなど多くの作曲家が9つの交響曲(または10番未完)で創作を終えています。
しかし例えばモーツァルトは41曲の交響曲を書いており単なる偶然と考えられています。もっと凄いのを挙げれば、交響曲の父などと呼ばれるハイドンは100曲以上ですからね。。
日本で年末に第九を演奏する習慣はどこから来たのですか?
この習慣は先述の通り、1918年、第一次世界大戦中に徳島県の板東俘虜収容所でドイツ人捕虜によって行われた演奏会に起源があるとされています。
しかし現在のような年末恒例行事として定着したのは1940年代後半に東京で行われた演奏会がきっかけとなったという説もあります。いずれにせよこの伝統は日本独自のものであり新年を迎える準備として「第九」を演奏する習慣は世界的に見ても珍しいものです。
歓喜のテーマはベートーヴェンのオリジナル?
ベートーヴェンのオリジナルですが彼自身の以前の作品からの影響も指摘されています。
特に1808年に作曲された「合唱幻想曲」のテーマとの類似性が高くベートーヴェンが「第九」のアイデアを長年温めていたことがうかがえます。
聴覚障害のベートーヴェンはどのように作曲していたのですか?
ベートーヴェンは耳が聞こえなくなった後も若い頃からの音楽的記憶と内的聴覚に頼って作曲していました。また特別な骨伝導装置を使ったとも言われています。
彼は音楽理論の深い理解により音を直接聞かなくても心の中で響きを思い描くことができたのです。会話用のノートも使い周囲の人々とコミュニケーションを取りながら創作活動を続けました。
【まとめ】人類の遺産として生き続ける「第九」
ベートーヴェンの交響曲第9番は名曲の枠を超えて今や人類共通の宝となっています。
交響曲に声楽を取り入れるという革新的な試みやシラーの「歓喜の歌」に込められた人類の友愛と連帯のメッセージは、むしろ分断と対立が目立つ現代社会においてその普遍的な価値はさらに重要性を増しているといえるのではないでしょうか。
「すべての人は兄弟となる」というベートーヴェンとシラーの共通の理想は音楽という言葉を超えた媒体を通じて世界中の人々の心に語りかけ続けているといえるでしょう。