【椿姫に】ヴェルディとその人間関係【アイーダ】

作曲中のジュゼッペ・ヴェルディ 音楽

19世紀イタリアを代表する作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ。『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』など数々の名作オペラを世に送り出した彼の人生は深い喪失体験から偉大な成功まで激動に満ちたものでした。

しかしヴェルディの創作の原動力となったのは彼を取り巻く様々な人間関係だったともいえます。家族や恋人、同業の音楽家、台本作家たちとの絆や葛藤が彼の音楽にどのような影響を与えたのでしょうか。

今回は天才作曲家の知られざる人間ドラマに迫ります。

個人的な悲劇と音楽への情熱

若き日の挫折と復活

ヴェルディは若くして恩人アントニオ・バレッツィの娘マルゲリータと結婚しました。

二人の間には二人の子供が生まれましたがいずれも幼くして亡くなるという悲劇に見舞われます。そして1840年、最愛の妻までも失ったヴェルディは深い絶望に襲われ作曲活動を断念することさえ考えました。

この暗黒の時代、彼は劇場支配人のメレッリから「ナブッコ」の台本を渡されます。

当初は断ったものの結局その台本に魅了され作曲に取り掛かった結果、このオペラは1842年に大成功を収めます。「ナブッコ」の合唱曲「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」(Va, pensiero)は特に有名で、イタリアの統一運動(リソルジメント)を象徴する曲としても親しまれるようになりました。

Va, pensiero (Chorus of the Hebrew Slaves) – Giuseppe Verdi: Nabucco – Kendlinger

この成功によってヴェルディは作曲家としての地位を確立し「成功の10年」と呼ばれる多作期に入ります。

個人的な悲劇を乗り越え音楽への情熱を再燃させたことは後のヴェルディの創作活動の基盤となったのです。

ジュゼッピーナ・ストレッポーニとの愛

ヴェルディの人生において最も重要な女性の一人がソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニでした。彼女は1842年の「ナブッコ」初演に出演し、それ以降二人は親密な関係を築いていきます。

二人は結婚するまで何年も事実婚状態で暮らしていましたが、これは19世紀半ばの社会規範からすれば非常にスキャンダラスなことでした。地元のブッセートでは村人たちから白い目で見られることもあり、ヴェルディは時に激しく弁護する手紙を書いたこともあったようです。

1859年に二人は正式に結婚しますがそれまでの間も彼らの絆は揺るぎないものでした。ストレッポーニはヴェルディのキャリアをずっと支え続け、二人の関係は彼女が1897年に亡くなるまで続きました。彼女の存在はヴェルディの後期の作品、特に女性キャラクターの描写に大きな影響を与えたとも言われています。

音楽家との交流と芸術的対立

ワーグナーとの複雑な関係

ヴェルディと同時代に活躍したドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーとの関係は19世紀オペラ界における興味深い対比を生み出しました。

二人は直接会ったことはなかったものの互いの音楽に対して独自の見解を持っていました。

ヴェルディはワーグナーの音楽的技量に敬意を表しながらもその革新的なアプローチには批判的な面もありました。「ワーグナーの作曲は音楽ではない」と発言したこともあるとされています。一方ワーグナーもヴェルディのメロディとドラマ性を賞賛しつつも、イタリア・オペラの伝統的な構造に固執する点を批判していました。

両者のスタイルは対照的で、ヴェルディがメロディーと感情表現を重視したのに対し、ワーグナーは音楽と詩の融合、そして神話的要素を強調しました。この芸術的対立は後の音楽史において「ヴェルディ派」と「ワーグナー派」という二つの陣営を生み出すことになります。

興味深いことにヴェルディは自宅の書斎にワーグナーの肖像画を飾っていたといわれ、競争相手への複雑な敬意を示していました。

二人の作曲家の対比は単なる敵対関係ではなく、それぞれが独自の芸術的ビジョンを追求する中での建設的な緊張関係だったと言えるでしょう。

ロッシーニとの友情

ヴェルディのもう一人の重要な音楽的交流相手が『セビリアの理髪師』で知られるジョアキーノ・ロッシーニでした。

ロッシーニは若いヴェルディが台頭してきた頃にはすでに引退していましたが二人の間には相互尊敬に基づく特別な友情がありました。

パリ滞在中、ヴェルディはロッシーニと親交を深め彼の音楽的天才を高く評価していました。1868年にロッシーニが亡くなるとヴェルディは深い悲しみに暮れレクイエム・ミサを企画します。このプロジェクトではイタリアの著名な作曲家たちが各セクションを分担して作曲することになっていましたが残念ながら諸事情により完成には至りませんでした。

ヴェルディはロッシーニについて「彼はイタリア・オペラの歴史において最も偉大な天才だった」と語ったとされています。ロッシーニの聡明な機知と軽やかなメロディの才能はヴェルディの作風とは対照的でしたがそうした違いを超えて彼は尊敬の念を抱いていたのです。

歌手たちとの創造的関係

ヴェルディにとって歌手たちは単なる演奏者ではなく作品を形作る上での重要なインスピレーション源でした。彼はしばしば特定の歌手の声質や表現力を念頭に置いて役作りをしていました。

特にソプラノ歌手のテレサ・シュトルツとの関係は注目に値します。彼女は『アイーダ』のアムネリス役を演じ『レクイエム』や『オテロ』の初演でも歌いました。ヴェルディとシュトルツの親密な関係については様々な憶測があり二人は単なる芸術的なパートナー以上の関係にあったのではないかとも言われています。ただしこうした噂に決定的な証拠はなくプロフェッショナルな敬意と友情に基づく関係だった可能性も高いでしょう。

(HD) Opera – Verdi – Aida – Triumphal March – Lund International Choral Festival 2010 – Sweden

ヴェルディはまた歌手たちに対して厳格な指導者でもありました。彼は完璧な演奏を求めリハーサルでは容赦のない要求をすることもあったようです。ある歌手は「ヴェルディ先生の前で歌うことは最高の栄誉と最大の恐怖が同時に訪れる体験だ」と語ったという逸話も残っています。

台本作家との創造的コラボレーション

ピアヴェとの長期的パートナーシップ

ヴェルディにとって台本(リブレット)作家との関係は作品の成功において極めて重要でした。中でもフランチェスコ・マリア・ピアヴェとの共同作業は特筆すべきものです。ピアヴェは『リゴレット』『椿姫』『シモン・ボッカネグラ』などヴェルディの代表作の多くの台本を手がけました。

二人の関係はしばしば波乱に満ちたものでした。ヴェルディは理想とする台本に対して妥協を許さず時に厳しい要求をピアヴェに突きつけることもありました。残されている手紙からはヴェルディが具体的な指示や修正を細かく伝えていた様子がうかがえます。

しかし同時にヴェルディはピアヴェの才能と忠誠心を深く信頼していました。1865年にピアヴェが脳卒中で倒れた際には、ヴェルディは経済的援助を提供し彼の家族を支えています。このことは彼らの関係が単なる仕事上のものを超えた友情に基づいていたことを物語っています。

ボイトとの晩年の協力関係

ヴェルディの最晩年の傑作である『オテロ』と『ファルスタッフ』の台本を手がけたのが詩人であり作曲家でもあったアリゴ・ボイトです。彼との創造的なパートナーシップはヴェルディの最も実り多い芸術的コラボレーションの一つとなりました。

ボイトはシェイクスピアの原作を深く理解しその本質を保ちながらオペラ用に巧みに再構成する才能を持っていました。ヴェルディは彼の文学的センスと音楽的理解力を高く評価し二人の協力は理想的な形で実を結びました。

『オテロ』(1887年)は74歳で発表された傑作であり『ファルスタッフ』(1893年)は80歳での最後のオペラとなりました。特に『ファルスタッフ』はそれまでのヴェルディの重厚な悲劇的作風から一転、軽やかな喜劇として音楽史に新たな一面を残しています。「人生は喜劇だ」というこの作品の最後の言葉は長い人生を経たヴェルディの人生哲学を表しているようにも思えます。

政治と社会との関わり

リソルジメントとの意外な関係

ヴェルディの音楽、特に『ナブッコ』の合唱曲「Va, pensiero」(行け、我が思いよ)は先にも述べたようにイタリアの統一運動であるリソルジメントと深く結びついてきました。この曲は抑圧された人々の自由への願いを表現したものとして非公式な「国民の歌」とも言うべき存在になりました。

「Viva VERDI」というスローガンは表向きは作曲家への賞賛を示すものでしたが実際には「Vittorio Emanuele Re D’Italia」(ヴィットリオ・エマヌエレ、イタリアの王)の頭文字をとった政治的メッセージの暗号でもありました。

こうしてヴェルディの名前自体が統一運動の象徴となったのです。

しかし興味深いことにヴェルディ自身は自分の音楽が政治的シンボルとなることには複雑な感情を抱いていたようです。彼は「私はまず作曲家である」と主張し芸術家としての自己認識を優先していました。

とはいえ彼がイタリアの統一と独立に深い関心を持っていたことは確かで実際にイタリア議会の議員や上院議員を務めたこともありました。

芸術的誠実さへのこだわり

ヴェルディは検閲との闘いでも知られていました。19世紀の政治的に不安定なイタリアではオペラの内容は厳しい検閲の対象となっていました。『リゴレット』(原題は『呪い』)や『椿姫』など政治的あるいは道徳的に問題があるとされた作品はしばしば当局からの修正要求に直面しました。

しかしヴェルディは自分の芸術的ビジョンに対して妥協することを嫌いしばしば検閲との激しい交渉を行いました。例えば『椿姫』での「倫理に反する」とされた現代の高級娼婦を主人公とする設定を守り抜いたことは有名です。

またヴェルディは作曲家の権利を強く信じイタリアでの著作権法の制定にも尽力しました。当時は作曲家の作品が無断で使用されることも多くヴェルディはこうした不公正な慣行と闘う先駆者的存在でした。

知られざる慈善活動

ヴェルディの生涯であまり知られていない側面の一つが彼の慈善活動です。特に注目すべきはミラノに設立した「Casa di Riposo per Musicisti」(音楽家のための老人ホーム)です。この施設は高齢で貧しい音楽家たちのための場所としてヴェルディ自身の資金で建設されました。

ヴェルディはこの慈善事業を「自分の作品の中で最も美しいもの」と呼んだといわれています。彼は生前から施設の建設に関わり死後の著作権収入の多くをその維持のために遺贈しました。今日でもミラノには「ヴェルディの家」として知られるこの施設が存在し老境の音楽家たちの住まいとなっています。

この慈善活動は華やかな舞台裏で苦労する音楽家たちへのヴェルディの深い理解と共感を示すものであり彼自身の人間性を映し出しているといえるでしょう。

その他の重要な人間関係

劇場支配人との交渉術

ヴェルディと劇場の興行主や支配人との関係は概して対立的なものでした。彼は自分の作品の上演条件、キャスティング、リハーサルの方法など芸術的な側面に関して妥協を許さない姿勢で知られていました。

特にミラノ・スカラ座の興行主バルトロメオ・メレッリやロンドンのコヴェント・ガーデンの支配人フレデリック・ガイとの交渉は難航したことで有名です。彼らとの往復書簡にはヴェルディの頑固さと同時に自分の芸術に対する揺るぎない信念が表れています。

ある時、契約条件に満足できなかったヴェルディは「私の条件が受け入れられないならあなたは私のオペラを上演しなくてもいい」とメレッリに書き送ったといいます。こうした毅然とした態度は作曲家としての地位が確立するにつれてより強くなっていきました。

マッフェイ伯爵夫人との特別な友情

ヴェルディの人間関係であまり知られていないものの一つが裕福な伯爵夫人クララ・マッフェイとの深い友情です。マッフェイ夫人はミラノの文化サロンを主宰する社交界の中心人物で多くの芸術家や知識人が彼女のサロンに集まっていました。

ヴェルディとマッフェイ夫人の手紙からは二人が互いに深い敬意と愛情を持っていたことがうかがえます。その関係は基本的にプラトニックなものでしたが書簡の親密な内容から当時は二人が恋愛関係にあるという憶測も広まりました。

マッフェイ夫人はヴェルディの芸術的成長を見守り彼の人生の重要な転機で支えとなりました。二人の友情は19世紀の知的エリートと芸術家の間の文化的交流の典型例として興味深い歴史的事例とも言えるでしょう。

ヴェルディに関するよくある質問

ヴェルディはどのくらいのオペラを作曲したのですか?

ヴェルディは生涯で27作のオペラを作曲しました。

初期の『オベルト』(1839年)から最後の『ファルスタッフ』(1893年)まで半世紀以上にわたって作曲を続けました。特に『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』『オテロ』など今日でも頻繁に上演される名作が多いことが特徴です。

ヴェルディとワーグナーは実際に会ったことがあるのですか?

二人は同時代の偉大なオペラ作曲家として並び称されますが実際に会ったという確かな記録はありません。

ヴェルディはワーグナーの音楽に関心を持ち彼の楽譜を研究していましたが個人的な交流はなかったようです。ただしヴェルディは自宅の書斎にワーグナーの肖像画を飾っていたとされ競争相手への一定の敬意を示していました。

「Va, pensiero」(行け、我が思いよ)はなぜそれほど重要な曲なのですか?

この『ナブッコ』からの合唱曲はバビロン捕囚下のヘブライ人たちが故郷を思う歌で当時のイタリア人にとっては外国支配からの独立を求める自分たちの願いと重ね合わせることができました。

この曲は非公式な「第二の国歌」とも言える存在となり今日でもイタリアでは特別な意味を持つ曲として歌い継がれています。実際この曲を国歌にしようという運動が何度か起こったこともあります。

ヴェルディの最高傑作は何だと考えられていますか?

音楽評論家や愛好家の間では最晩年の『オテロ』が彼の最高傑作と見なされることが多いです。シェイクスピアの『オセロ』に基づくこの作品はヴェルディの劇的表現の成熟と音楽的技巧の頂点を示すものとされています。

しかし『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などの中期の作品も同様に傑作と考える意見もあり一概にどれが最高かを決めることは難しいでしょう。特に喜劇である最後の作品『ファルスタッフ』はヴェルディの新境地を開いた作品として特別な評価を受けています。

まとめ

ジュゼッペ・ヴェルディの人生と芸術は彼を取り巻く様々な人間関係によって形作られてきました。

若くして家族を失うという悲劇から立ち直りストレッポーニという生涯の伴侶を得てワーグナーというライバル、ピアヴェやボイトという台本作家たちとの創造的な協力関係を通じて彼は19世紀を代表する作曲家へと成長しました。

彼の音楽は単に美しいメロディーや劇的な効果だけでなく人間の感情と社会の現実を深く理解した表現に満ちています。それは彼自身の人生経験と周囲の人々との関わりから生まれたものです。政治的な象徴となった「Va, pensiero」から人生の叡智が詰まった『ファルスタッフ』までヴェルディの作品は彼の豊かな人間関係の反映とも言えるでしょう。

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