ショパンの生涯概略 ピアノに集中したモーツァルト並の天才
フレデリック・ショパンは1810年生まれのポーランドの作曲家だ。誰もが知るように彼のピアノのための精巧な作品群は彼の死後2世紀近くたっても聴衆を魅了している。
ショパンはワルシャワ公国のジェラゾヴァ・ヴォラという小さな村に生まれた。生粋のポーランド人という印象を持っている方も多いと思うが、父親はフランスからの移民で、母親がポーランド人であった。
ショパンは母と妹と非常に親密であり、その親密さはショパンの音楽の情緒的な深みに反映されていると考えられている。母親からピアノを習い、なんと6歳の頃には公開コンサートを開くようになったと言われている。モーツァルトのような幼少期からの天才型であった。
そしてショパンが作曲した最初の有名な曲は、やはり早く、わずか7歳のときに書かれたト短調のポロネーズである。ポロネーズとマズルカはどちらもポーランドの舞曲であり、ショパンがそのキャリアを通じて再演する形式となった。
1826年、ショパンはワルシャワ音楽院で作曲とピアノの勉強を開始する。ここで彼はヨゼフ・エルスナーから大きな影響を受け、ショパンの個性的なスタイルを育み、伝統的な音楽的慣習から脱却するよう励まされた。この指導によって、ショパンは斬新で複雑なテクスチャーと独自の形式を生み出す勇気を植え付けられたといえる。
20歳になるとショパンはポーランドを離れ、当時世界の芸術の中心地であったパリに移り住んだ。
ショパンはここで、フランスの大衆によりアピールするために、名前をフライデリクからフレデリックと変えた。パリでショパンは成功を収めて、その類まれな才能を高く評価した裕福なパリ市民からの庇護を受けるようになった。
御存知の通り彼は美しく叙情的なメロディーを書く才能があり、それを繊細で複雑なピアノ伴奏の上に乗せた。そしてほとんどピアノ独奏のために作曲し、同時代の多くの作曲家が交響曲やオペラに重点を置いていたのとは一線を画していたといえる。
ただし彼は音楽的な成功にもかかわらず、生涯にわたって病気に苦しめられた。彼は繊細な体質で、たびたび病気にかかり、おそらく結核であったともいわれる。この虚弱な健康状態は、多くの家族や親しい友人を失ったことと共に、彼の音楽にメランコリックな雰囲気を吹き込んだと考えられている。
そしてショパンは1849年に39歳でパリで亡くなった。モーツァルトの生涯は35年であったが同じ天才としてやはり早すぎる死を迎えてしまった。
その死後も彼の作品はピアニストや音楽学者たちによって演奏され、録音され、現在にわたって研究され続けている。
ショパンの人間関係
ジョルジュ・サンド
ショパンの最も有名な関係はペンネームと男装の趣味で知られる大胆で反抗的な女流作家、ジョルジュ・サンド(これはペンネームでちなみに本名はオーロール・デュパン)との関係である。1838年に始まった二人の関係は10年近く続き、ショパンの人生において生産性の高い時期であった。そして同時に健康状態の悪化に悩まされた時期でもあった。
ショパンの名声が頂点に達しサンドもややスキャンダラスな作家として有名になっていた頃、共通の友人でありショパン並に有名であり、かつ華々しい作曲家であったあのフランツ・リストを通じてパリで二人は出会った。繊細で内向的な作曲家と、自己主張が強く型破りな、ある意味対照的な作家の関係は、1838年に本格的に始まった。
ショパンはサンドが所有するノアンの別荘で安らぎを見出して、そこで何度か夏を過ごす。そうしてそこで「24の前奏曲」作品28をはじめとする最高傑作の数々を作曲したのだ。この時代は、ショパンの創作活動の中で最も実り多い時期の一つであったといえるだろう。
しかし、やがてショパンの持病はサンドの忍耐力を奪っていく。それは彼女の手紙や文章にも表れている。さらにサンドの娘ソランジュとショパンは仲が良かったのだが、サンドはそれを脅威と感じるようになった。ショパンがソランジュの結婚に協力したことで対立がおきサンドは裏切られたと感じ、二人の間に溝ができた。
1846年、サンドの小説「ルクレツィア・フロリアーニ」が出版され、ショパンと思われる虚弱で依存的な芸術家が否定的に描かれることになった。このことは当然ショパンを深く傷つけた。1847年までに二人の関係は修復不可能なほどこじれていた。
最終的には激しい恨みといってもいいようなものとなり、別離後にショパンの健康と精神は急速に衰え、その2年後の1849年のショパンの死へとつながってしまう。
別れたサンドもショパンの死には深く心を痛めた。後年、二人が疎遠になったことを後悔することとなったといわれている。
その他のショパンの交流 名曲子犬のワルツの誕生はこちら
そしてショパンの恋愛関係についてはジョルジュ・サンドが有名だが一つではない。
もう一つの重要な関係としてショパンが一時婚約していたマリア・ヴォジンスカとの関係がある。
二人の手紙からは若々しく青春のような恋愛であったことが見て取れる。そして同時に儚いものでもあった。この時期にショパンは変ニ長調のワルツ「ミニッツ・ワルツ」をマリアに献呈した。これがあの有名な、いわゆる日本や英語圏でいう「子犬のワルツ」である。
ただしマリアの両親はショパンの健康状態や経済的安定を疑い、結局婚約を解消してしまうのだ。。
勿論恋愛関係だけでなく友人関係も彼にはある。有名どころではサンドは小説家であったが、ロマン派の偉大な詩人アダム・ミキエヴィッチと親交があった。
そして既に述べたように同時期の有名作曲家のリストとは音楽スタイルが対照的であるにもかかわらず温かい友情を育んでいた。
ただ、リストとの友情は結果的にはぎくしゃくしてしまう。これにはショパンの作品をリストが派手に解釈したことが原因であるとの噂がある。なんとなく二人の音楽を聴いたことがある人ならば想像がつかないでもないが、、あくまで噂である。
またポーランドの伯爵夫人デルフィナ・ポトツカとの関係も深く、ショパンは深い友情と恋愛関係を築いていた可能性があるともいわれている。ショパンがポトツカに宛てたとされる手紙は、20世紀になって表面化し親密な関係を示唆したが、その真偽についてはいまだに多くの論争があるようだ。
最後に、やはりショパンと家族の関係も重要である。序盤にも親密と言ったようにショパンと妹のルドヴィカとの絆は彼の人生の中で最も深い関係の一つであった。ショパンはルドヴィカにピアノを教え、ルドヴィカはショパンの最期の病床を看病していた。また、ショパンは末の妹エミリアの死にも深い影響を受けたといわれている。
以上がポーランドとフランスが生んだピアノの天才ショパンの人間関係についてである。