フランス音楽の黄金期を代表する二人の巨匠クロード・ドビュッシー(1862-1918)とモーリス・ラヴェル(1875-1937)。
「月の光」や「亡き王女のためのパヴァーヌ」といった美しい作品で知られる彼らは一見すると同じような音楽を書いたと思われがちですが実際の関係は尊敬と競争、親密さと距離感が入り混じる複雑なものでした。
フランス近代音楽の革新者として共に歩みながらも芸術観や性格の違いから時に対立した二人の作曲家の関係性を探ります。
二人の出会いと初期の関係
師弟から同僚へと変わる関係
ドビュッシーとラヴェルが初めて出会ったのは1880年代後半のことでした。
当時ドビュッシーは既に「牧神の午後への前奏曲」の初演で成功を収め、パリの音楽シーンで確固たる地位を築いていました。一方のラヴェルはまだパリ音楽院の学生で14歳年下という後進の立場でした。
ラヴェルは早くからドビュッシーの革新的な音楽に魅了され熱心に研究していたといいます。
特にドビュッシーが打ち出した新しい和声法や音色の扱い方は当時の音楽界に新風を巻き起こしていました。ラヴェルの初期作品、特にピアノ曲「水の戯れ」(1901)などにはドビュッシーの影響が色濃く見られます。
当初、二人の関係は先輩と後輩というシンプルなものでした。
ドビュッシーはラヴェルの才能を認め若き作曲家を励ましていたようです。また両者は当時の主流だったワーグナーに代表されるドイツ音楽の影響から離れフランス独自の音楽言語を創造するという共通の目標を持っていました。
こうした友好的な関係の中、ドビュッシーはラヴェルの「幼な子のためのパヴァーヌ」(後の「亡き王女のためのパヴァーヌ」)を公に絶賛しています。
この曲はラヴェルが作曲した最初の傑作の一つと言われており、ドビュッシーの賞賛は若きラヴェルにとって大きな励みとなったでしょう。
ちなみにこちら、なんとラヴェル本人の演奏である。
「印象主義」という誤解
ドビュッシーとラヴェルは共に「印象主義音楽」の代表者として語られることが多いですが実は二人ともこの呼称を好んでいませんでした。特にドビュッシーは「私は印象主義者ではない」と強く主張していたといいます。
「印象主義」という言葉は本来モネやルノワールといった画家たちの絵画運動を指す言葉で批評家たちが彼らの音楽に対して使い始めたものでした。確かに二人の音楽には色彩感や雰囲気を重視する点で印象派絵画との共通点もありますが彼ら自身はむしろ象徴主義の理念に共感していたと言われています。
象徴主義とは19世紀末にフランスで起こった芸術運動で表面的な描写よりも内面的な感覚や象徴を重視する特徴があります。ドビュッシーとラヴェルの音楽はまさにこうした象徴主義の理念に沿った暗示的で繊細な表現を特徴としていたのです。
二人の作曲家はフランス音楽の新たな方向性を示す同志として認識されていましたが時が経つにつれその音楽的アプローチの違いも明らかになっていきました。
ドビュッシーとラヴェルの代表作は何ですか?
ドビュッシーの代表作としては管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」「海」、ピアノ曲「ベルガマスク組曲」(「月の光」を含む)、「版画」、オペラ「ペレアスとメリザンド」などが挙げられます。
ラヴェルの代表作にはバレエ音楽「ダフニスとクロエ」「ボレロ」、管弦楽曲「スペイン狂詩曲」「ラ・ヴァルス」、ピアノ曲「鏡」「夜のガスパール」、ピアノ協奏曲ト長調などがあります。どちらの作曲家も幅広いジャンルで優れた作品を残していて20世紀の音楽に大きな影響を与えました。
芸術的対立と競争関係
対照的な音楽スタイル
ドビュッシーの音楽は流動的で即興的な印象を与え形式よりも感覚的な表現を重視する傾向がありました。彼の和声は非常に探求的で伝統的な調性の概念から離れた実験的な要素が強いです。
一方、ラヴェルの音楽は緻密で形式的な完成度に特徴があります。彼は革新的な和声や音色を追求しながらも古典的なバランス感覚と明確な構造を持った作品を書きました。
ラヴェルはしばしば自分のことを「職人」と表現し音楽を精巧な時計のように丁寧に組み立てる作曲家だったのです。
この違いは二人の性格の違いも反映しているようです。ドビュッシーはボヘミアン的な気質を持ち直感に従って作曲する傾向がありました。対してラヴェルは計算高く冷静で客観的な視点から音楽を構築していったといいます。
たとえば同じ「水」をテーマにした作品を比較してみると、ドビュッシーの「海」は自然の神秘的な側面を捉え流動的で変幻自在な表現が特徴です。一方のラヴェルの「水の戯れ」や「エスパーニャの時」(「鏡」の一曲)は水の動きを精緻な音型で描写し明確な構造を持っています。
ローマ賞事件とその余波
二人の関係において重要な転機となったのが1905年に起きた「ローマ賞事件」でした。
ローマ賞はフランスの若手芸術家に与えられる名誉ある賞で受賞者はローマでの留学資金を得られるものでした。ドビュッシーは1884年にこの賞を受賞していましたが彼自身はローマでの経験をあまり評価していなかったようです。
一方、ラヴェルは5回もこの賞に挑戦しすべて失敗していました。
特に1905年の選考では彼ははじめから最終選考まで残りながらも失格となり大きなスキャンダルとなりました。審査員の保守的な判断に対してパリの音楽界から強い批判の声が上がり審査員の一部は辞職に追い込まれたほどです。
この事件に対しドビュッシーはラヴェルに支持の手紙を送り保守的な音楽界を軽蔑する気持ちを表明しました。この出来事は一時的に二人を近づけ、また、賞としては皮肉なことにこの事件をきっかけにラヴェルの名声は高まってドビュッシーと肩を並べるような存在として認識されるようになっていったようです。
ローマ賞とは具体的にどのような賞だったのですか?
ローマ賞(Prix de Rome)は1663年に設立されたフランスの芸術賞で若手芸術家に国家から与えられる最も権威ある賞の一つでした。受賞者はローマのヴィラ・メディチにある「フランス・アカデミー」での3〜5年間の留学資格と資金を得ることができました。
音楽部門は1803年に追加され厳格な審査過程がありました。応募者は規定のテーマに基づいて作品を作曲し、まず予選で学術的な技術試験を通過しなければなりませんでした。そして本選では与えられた主題に基づいてカンタータ(声楽と器楽による多楽章の作品)を作曲するという課題が出され完全な隔離状態で約3週間という限られた時間内に仕上げる必要がありました。
この厳しい条件のため革新的な才能を持つ作曲家が必ずしも評価されるわけではなくベルリオーズやドビュッシーといった後に偉大な作曲家となる人物も苦戦を強いられることが多かったのです。
疎遠から和解へ
対立する音楽派閥の象徴
1900年代に入るとラヴェルの名声が高まるにつれて二人の関係は冷え込んでいきました。
特に批評家たちが二人を比較して論じるようになると彼らの違いは音楽的差異を超えてフランス音楽界における対立する派閥の象徴とみなされるようになりました。
ドビュッシーはより実験的で前衛的なグループと結びつけられる一方、ラヴェルは伝統主義者の代表とみなされることが多かったのです。
こうした二項対立は実際よりも誇張されている面もありましたが批評家や聴衆によって作り出された対立構図は二人の実際の関係にも影響を及ぼしました。
1909年、ラヴェルは「アンデパンダン音楽協会」(Société Musicale Indépendante)の設立に関わりました。この協会は新しい音楽のための発表の場を提供することを目的としていましたがドビュッシーは招待されたものの参加を辞退しています。
彼はこの協会をかえって保守的とみなし自分の音楽観とは合わないと考えたようです。
こうして二人は次第に疎遠になっていきましたが互いの音楽に対する尊敬の念は失われていなかったようです。ラヴェルは生涯を通じてドビュッシーの音楽を高く評価し続けました。
晩年の和解と尊敬の証
二人が最後に手紙をやり取りしたのは1913年のことでした。ドビュッシーはラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に感嘆の意を表す手紙を送っています。これは表面的な儀礼を超えた真摯な称賛だったと考えられています。
また第一次世界大戦中、健康を害していたドビュッシーのためにラヴェルはドビュッシーの曲による慈善コンサートを企画しました。仕事上の対立を超えて苦しむ同僚を援助しようとする温かい行為でした。残念ながらドビュッシーは1918年このコンサートが開催される前に56歳で亡くなり予定されていた演奏会は追悼コンサートとなりました。
ラヴェルのドビュッシーへの敬意を示す最も有名なエピソードは、ドビュッシーの死後ラヴェルがフランス最高の栄誉であるレジオン・ドヌール勲章の受章を辞退したというものです。これはドビュッシーがこの勲章を受けていなかったことへの抗議とも言われています。
このエピソードの真偽については議論がありますがラヴェルが生涯にわたってドビュッシーを尊敬していたことは間違いないでしょう。
ドビュッシーとラヴェルの私生活は?
二人の私生活は対照的でした。ドビュッシーは複雑な恋愛関係で知られ2度の結婚と複数の恋愛スキャンダルがありました。
特に最初の妻リリー・テクシエとの結婚中に銀行家の妻エンマ・バルダックと恋愛関係になり後に彼女と駆け落ちしたことは大きな社会的スキャンダルとなりました。彼は基本的に内向的でありながらもボヘミアン的な生活を送り経済的にも不安定な時期がありました。
一方のラヴェルは生涯独身を通し極めて秩序だった生活を送りました。
服装や身だしなみにも非常に気を配り自宅もきちんと整理された状態を保っていたといいます。彼の私生活はとても謎めいていて親しい友人以外には心を開きませんでした。
母親との絆が特に強く彼女の死後は精神的に大きな打撃を受けたとされています。二人の異なる生活様式も音楽スタイルの違いに反映されているように思えます。
共通の影響源と芸術的遺産
東洋音楽からの影響
ドビュッシーとラヴェルが共有していた重要な影響源の一つが1889年パリ万博で紹介された東洋の音楽でした。特にジャワ島のガムラン音楽は二人に強い印象を与えました。
ガムランとはインドネシアの伝統的な合奏音楽でゴングやメタロフォンなどの打楽器を中心とした独特の音色と複雑なリズムが特徴です。西洋の調性音楽とは全く異なる音階や和声の概念を持つこの音楽は新しい音楽表現を模索していた二人の作曲家にとって大きな啓示となりました。
ドビュッシーの「パゴダ」(「版画」より)や「亜麻色の髪の乙女」などには五音音階や解決されない不協和音の使用など明らかに東洋音楽の影響が見られます。同様にラヴェルの「マ・メール・ロワ」や「シェエラザード」にも東洋的な色彩感やリズムの要素が取り入れられています。
このように二人は東洋音楽から様々なインスピレーションを得ましたがそれをどう自分の音楽言語に取り入れるかというアプローチには違いがありました。ドビュッシーはより詩的で抽象的に東洋的要素を暗示するのに対しラヴェルはより明確に異国的な音色やリズムを描写する傾向がありました。
音楽史における二人の位置づけ
ドビュッシーとラヴェルは共に20世紀音楽の礎を築いた革新者として音楽史に名を残しています。二人は従来の和声法や形式の概念を拡張し新しい音色や表現の可能性を切り開きました。
ドビュッシーの音楽的遺産は調性の解体と新しい音組織の探求にあります。彼の実験的なアプローチは後のシェーンベルクら十二音技法の作曲家たちにも影響を与えました。
また音色を音楽の中心的要素として扱う彼のアプローチは電子音楽やサウンドスケープの概念にも通じるものがあります。
一方、ラヴェルの遺産は精緻なオーケストレーションと音色の探求にあるでしょう。彼の「ボレロ」に代表される緻密な管弦楽法は後世の作曲家に大きな影響を与えジャズやポピュラー音楽の編曲にも影響を及ぼしました。
二人の音楽は一見すると似ていますがその実、異なるアプローチから20世紀音楽の多様な可能性を示したものと言えるでしょう。彼らの業績は対立する二項ではなく相互に補完し合う芸術的探求として捉えるべきものなのかもしれません。
まとめ
クロード・ドビュッシーとモーリス・ラヴェルの関係は師弟関係や競争関係には収まらない複雑なものでした。
互いの音楽を尊重しながらも芸術観の違いから次第に疎遠になり時には間接的に対立することもあった二人。しかし生涯を通じて特にラヴェルはドビュッシーへの敬意を失うことはありませんでした。
二人の関係は時に批評家や聴衆によって過度に単純化され対立的に描かれることもありましたが実際には同時代を生きた芸術家として多くの共通点と相違点を持ち、互いに刺激し合いながらフランス音楽の新たな地平を切り開きました。
彼らの作品は互いに異なる魅力を持ちながらも20世紀の音楽に計り知れない影響を与えたといえるでしょう。