ハイドンの「天地創造」(ドイツ語で “Die Schöpfung”)はクラシック音楽の宝石とも呼べる壮大なオラトリオです。
聖書の天地創造の物語を題材に混沌から光、生命の誕生までを描いた本作は初演から200年以上経った今も世界中の合唱団に愛され続けています。
豊かな音楽表現と深い信仰心が結びついたこの傑作はハイドン晩年の円熟した才能が存分に発揮された最高傑作と言われています。宗教的な題材でありながら自然描写の美しさや人間讃歌としての側面も持ち合わせる「天地創造」の魅力と背景について詳しく見ていきましょう。
ハイドン「天地創造」の誕生背景
ロンドン訪問とヘンデルの影響
「天地創造」誕生のきっかけはハイドンの二度のロンドン訪問(1791-1792年と1794-1795年)にさかのぼります。当時すでに60歳を過ぎていたハイドンはロンドンでヘンデルの「メサイア」や「イスラエル・エジプトにて」などの大規模オラトリオに触れ深く感銘を受けました。特に英国で盛んだったヘンデル音楽祭での大規模な演奏は彼に強い印象を与えたようです。
ハイドンはウィーンに戻った後、同じような規模と感動を持つ作品を作りたいと考えるようになりました。そんな彼に「天地創造」の台本(リブレット)を提供したのがオーストリア帝国の外交官かつ文化人だったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵です。
スヴィーテン男爵は英国の詩人ジョン・ミルトンの叙事詩「失楽園」と聖書の「創世記」や「詩篇」を基にドイツ語の台本を作成しました。彼はバッハやヘンデルの音楽の保護者としても知られハイドンやモーツァルトの後援者でもあった重要人物です。スヴィーテン男爵は「天地創造」の作曲の過程でも多くの助言を行い作品の完成に大きく貢献しました。
晩年の傑作としての位置づけ
「天地創造」は1797年から1798年にかけて作曲されハイドンが66歳の時の作品です。すでに「ロンドン交響曲集」など数々の名作を生み出していたハイドンにとってこの作品は最晩年の大作として特別な意味を持っていました。
この頃のハイドンは長年仕えたエステルハージ家からは半ば引退状態にあり創作の自由を享受していました。「天地創造」には彼の音楽的経験の集大成と深い宗教心が込められています。ハイドン自身も「天地創造」について作曲中「私は毎日ひざまずいて神にこの仕事を成功させ、そして聴衆を喜ばせ神を讃えることができますようにと祈りました」と語っていたそうです。
実際、ハイドン自身がこの作品を自らの最高傑作と考えていたという記録も残っていて作曲中は特別な霊感を感じていたとも言われています。彼の友人たちによれば晩年のハイドンはこの作品の楽譜を手に取っては涙を流していたとのこと。自分の人生の集大成として「天地創造」に格別の愛着を持っていたことがうかがえます。
作品の構成と音楽的特徴
3部構成で描かれる壮大な創造の物語
「天地創造」は大きく3部構成になっています。第1部は天と地の創造、第2部は動植物の創造、第3部はアダムとイブの創造と楽園での生活を描いています。各部は序奏、レチタティーヴォ(語り)、アリア、そして合唱によって進行します。
特に印象的なのは作品冒頭の「混沌の表象」と呼ばれる序奏です。調性が定まらない不安定な和音進行と暗い音色でまだ形のない世界の混沌を見事に表現しています。そして「光あれ」という天使の言葉と共に突然のハ長調の輝かしい和音が鳴り響きます。この劇的な対比は音楽史上最も衝撃的な瞬間の一つとして名高いです。
3人の大天使(ガブリエル、ウリエル、ラファエル)がソリストとして登場し神の創造の業を語り、それに合唱が応える形で物語が進んでいきます。第3部では天使の役割がアダムとイブに引き継がれ二人の愛の二重唱や神への賛美が歌われます。全体を通して創造の喜びと畏敬の念が美しい音楽で表現されています。
聴きどころと音楽技法
「天地創造」の最大の魅力は自然描写の見事さにあるでしょう。太陽の輝き、月の柔らかな光、鳥のさえずり、獅子の咆哮、虫の蠢きなど様々な自然現象が音楽で描かれています。例えば「大いなる業が成し遂げられた」というアリアでは鳥のさえずりがフルートで模倣されたり「神の命令により地は草や緑の植物を生み出した」では成長する植物が上昇する音型で表現されたりします。
合唱部分も聴きどころの一つです。「天は神の栄光を語り」や「主の栄光は永遠に続く」など荘厳で力強い合唱曲が多く含まれています。特に各部のフィナーレの合唱は壮大でハイドンの対位法(複数の旋律を同時に進行させる技法)の技巧が存分に発揮されています。
オーケストレーションも見事です。ハイドンはここで当時としては大規模な編成(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、ティンパニ、弦楽器)を用い各楽器の特性を活かした色彩豊かな音響を創り出しています。特に管楽器の使用が目立ち創造の壮大さを表現するのに一役買っています。
音楽様式の特徴
「天地創造」はバロック音楽とクラシック音楽(古典派)の橋渡しのような作品と言えます。ヘンデルのオラトリオからの影響が見られる一方でハイドンならではの古典派的な明晰さと均整の取れた構造も持ち合わせています。
バロック的な要素としては複雑なフーガやレチタティーヴォとアリアの使用が挙げられます。一方、ソナタ形式の使用や古典派的な和声法、対称的な楽節構造などはハイドンの古典派的手法の表れです。
興味深いのは「天地創造」がモーツァルトの「魔笛」からも影響を受けているとされている点です。特に光の表現や自然描写において類似性が見られます。実際、ハイドンとモーツァルトは互いに尊敬し合い影響を与え合っていた関係でしたからそういった相互作用も「天地創造」の魅力の一部かもしれません。
初演と受容の歴史
大成功を収めた初演
「天地創造」は1798年4月29日、ウィーンの王宮近くにあったシュヴァルツェンベルク宮殿で非公開初演されました。貴族や特別招待客のみが参加したこの初演は大成功を収め演奏者も聴衆も感動に包まれたと伝えられています。
公開初演は翌1799年3月19日、ウィーンのブルク劇場で行われました。チケットは即座に完売し劇場の外まで人が溢れたと言われています。この演奏会ではハイドン自身が指揮台に立ちました。当時67歳だったハイドンはこの大成功に非常に感激したそうです。
初演のリハーサル中「光あれ」の場面で演奏者も聴衆も興奮のあまり演奏が一時中断したという興味深いエピソードが残っています。また初演時の演奏者数は約180人と言われていて当時としては非常に大規模な編成だったことがわかります。これはハイドンがロンドンで体験した大規模な演奏会の影響を受けていたからでしょう。
二つの言語版の存在
あまり知られていませんが「天地創造」にはドイツ語版と英語版の2つのバージョンが存在します。ハイドンはこの作品をドイツとイギリスの両方の聴衆に受け入れられるように意図していたのです。
ドイツ語のリブレットは前述のスヴィーテン男爵によるものですがこれを英語に訳したのもスヴィーテン自身でした。彼は英語に堪能だったようです。ただしこの英訳は必ずしも自然な英語とは言えず後に様々な改訂版が作られることになります。
現在ではドイツ語版が最もオーソドックスな演奏形態となっていますが英語圏では英語版で演奏されることも多いです。また日本では日本語訳で演奏されることもあります。どの言語で演奏するにしてもテキストと音楽の関係をどう処理するかは指揮者や演奏団体の大きな課題となっています。
後世への影響と現代における評価
「天地創造」は発表以来ずっと人気を保ち続け19世紀を通じてヨーロッパ中で演奏されるようになりました。ベートーヴェンも「天地創造」から多くのインスピレーションを受け自身のオラトリオ「オリーブ山のキリスト」や「ミサ・ソレムニス」などに影響を与えたと言われています。
20世紀に入ってからも「天地創造」はクラシック音楽のレパートリーとして確固たる地位を保っています。世界中の合唱団やオーケストラによって頻繁に演奏され数多くの録音も存在します。特に日本では合唱曲の定番として親しまれていてアマチュア合唱団も含め多くの団体がチャレンジする作品となっています。
音楽学者たちからの評価も非常に高くモーツァルトの「レクイエム」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」、バッハの「マタイ受難曲」などと並んで西洋音楽史上最も重要な宗教的声楽作品の一つと見なされています。その音楽的創意の豊かさ、構成の壮大さ、表現の多様性においてハイドンの天才が余すところなく発揮された最高傑作と言えるでしょう。
「天地創造」のユニークな特徴と演奏のポイント
古典派オラトリオの最高傑作としての特色
「天地創造」は古典派時代のオラトリオの最高傑作と評される作品です。バロック時代のオラトリオと比較するといくつかの独自の特徴があります。
まず物語の進行が劇的ではなくむしろ瞑想的・叙事的である点が挙げられます。ヘンデルのオラトリオが聖書の人物のドラマティックな物語に焦点を当てているのに対し「天地創造」では壮大な創造の過程そのものが主題となっています。
また古典派の特徴である明快な構造と透明感のあるテクスチャーがバロック時代の複雑な対位法と融合している点も特筆すべきでしょう。ハイドンはバロックの伝統を取り入れながらも自身の古典派的様式に昇華させているのです。
興味深いことに「天地創造」では当時最新の科学的視点と宗教的視点が融合しています。18世紀後半は啓蒙主義の時代で科学と宗教の調和が模索されていました。「天地創造」のテキストには神による創造と同時に当時の科学的世界観も反映されているのです。これは教会音楽でありながら世俗的な要素も含む18世紀ならではの特徴と言えるでしょう。
演奏上の課題とポイント
「天地創造」を演奏する上での技術的な課題はいくつかあります。まず合唱部分は技巧的な箇所が多くアマチュア合唱団にとっては相当な練習を要します。特にフーガ部分や細かい音型の部分は正確なリズムと明瞭な発音が求められます。
ソリスト(特に天使役)には広い音域と柔軟な声が必要です。特にソプラノ(ガブリエル役)には当時としては非常に高い音域が要求されています。テノール(ウリエル役)とバス(ラファエル役)も同様に技巧的なアリアや表現力豊かなレチタティーヴォを歌いこなす力量が必要です。
オーケストラにとっては様々な自然描写を表現するための繊細な演奏技術が求められます。指揮者は全体のバランスを取りながら各部分の特徴を活かす解釈が必要になります。
現代の演奏では時代楽器(ピリオド楽器)を使用するか現代楽器を使用するかという選択も重要です。ピリオド楽器による演奏はハイドンの時代の音色に近づける試みとして注目されています。どちらを選ぶにせよ18世紀末の音楽様式への理解が演奏者には求められるでしょう。
聴き手のための鑑賞ポイント
「天地創造」を初めて聴く方のためにいくつかの聴きどころをご紹介します。
まず冒頭の「混沌の表象」とそれに続く「光あれ」の場面は必聴です。不協和音に満ちた混沌から突然輝かしい和音へと変わる瞬間はクラシック音楽史上最も劇的な場面の一つと言われています。
第1部の終わりの合唱「天は神の栄光を語り」も壮大で美しい部分です。ここではハイドンの対位法の技巧が見事に発揮されています。
第2部では様々な動物や自然現象の描写に注目してみましょう。鳥のさえずり、獅子の咆哮、鹿の軽やかな足取りなどオーケストラによる音楽的描写が楽しめます。
第3部のアダムとイブの二重唱は愛の喜びを表現した美しい曲です。こちらも「天地創造」の中でも特に印象的な部分と言えるでしょう。
また全編を通して「天地創造」ではレチタティーヴォ(語り)→アリア→合唱という基本パターンが何度も繰り返されます。この構造を意識して聴くと作品の流れがより理解しやすくなるでしょう。
Q&A:ハイドン「天地創造」についてよくある質問
「天地創造」はミサ曲ですか?
いいえ「天地創造」はミサ曲ではなくオラトリオに分類されます。ミサ曲は典礼文(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ)を基にした宗教曲ですがオラトリオは聖書の物語などを題材にした劇的な声楽曲です。オラトリオはオペラに似ていますが舞台装置や衣装、演技を伴わずコンサート形式で演奏されるのが特徴です。ハイドンはミサ曲も多数作曲していますが「天地創造」はそれとは別のジャンルの作品です。
ハイドンの「四季」との関係はありますか?
「四季」は「天地創造」の成功を受けて作曲されたハイドンのもう一つの大オラトリオです。「天地創造」が1798年に完成したのに対し「四季」は1801年に完成しました。どちらもスヴィーテン男爵が台本を提供し自然描写が豊かな点で共通しています。しかし「天地創造」が聖書に基づく宗教的な内容なのに対し「四季」は農村生活と自然の移り変わりを描いた世俗的な内容となっています。音楽的には「天地創造」の手法をさらに発展させた面もあり姉妹作品として両方聴き比べるのも興味深いでしょう。
「天地創造」はどのくらいの演奏時間がかかりますか?
演奏時間は指揮者のテンポ設定やカットの有無によって変わりますが一般的には約1時間40分から2時間程度です。3部構成で第1部が約40分、第2部が約40分、第3部が約30分という配分が多いようです。現代では休憩を入れて演奏されることが多く通常は第1部と第2部の間に休憩を取ります。なお初演当時は現代よりもやや速いテンポで演奏された可能性が音楽学者によって指摘されています。
初心者にもおすすめの録音はありますか?
「天地創造」には数多くの録音がありますが初心者の方には以下のようなものがおすすめです。レナード・バーンスタイン指揮/ニューヨーク・フィルハーモニックの録音はダイナミックで親しみやすい解釈で定評があります。ジョン・エリオット・ガーディナー指揮/イングリッシュ・バロック・ソロイスツの録音はピリオド楽器による歴史的演奏法に基づきながらも生き生きとした演奏が魅力です。また日本では鈴木雅明指揮/バッハ・コレギウム・ジャパンの録音も高く評価されています。どの録音も「天地創造」の魅力を十分に伝えてくれるでしょう。
まとめ
ハイドンの「天地創造」は彼の深い信仰心と自然への愛、そして生涯をかけて培った音楽技術が結実した傑作です。聖書の天地創造の物語を基に混沌から秩序、そして生命の喜びまでを描いたこの作品は初演から200年以上を経た今も世界中の音楽家や聴衆を魅了し続けています。
特に注目すべきは自然現象や動植物の生き生きとした描写、荘厳で力強い合唱、そして3人の大天使を通して語られる創造の物語の壮大さでしょう。ハイドン晩年の円熟した技術と豊かな想像力が結びついた「天地創造」はクラシック音楽の宝として今後も長く演奏され続けることでしょう。