バッハの生い立ち 実は波乱万丈
JSバッハことヨハン・セバスティアン・バッハ。
まずはバッハの生い立ちから。バッハは1685年3月21日、ドイツのアイゼナハで生まれました。
この町は、音楽家の家系であるバッハ家の発祥地であり彼の父親であるヨハン・アンブロジウス・バッハは町の音楽家として知られていました。
バッハは幼少期から音楽に囲まれ音楽への情熱を育む環境に恵まれていました。
このようにバッハは音楽家の家系に生まれ、彼の家族は数世代にわたって音楽に従事していました。またチューリンゲン地方は宗教改革のマルティン・ルターの出身地でもあり、プロテスタントの影響が色濃く残る地域でした。
こうしてバッハは幼少期から音楽に親しみ、そして、家計を支えるために合唱団の仕事に多くの時間を費やしていました。
というのもバッハは幼少期に両親を失い孤児となっていたのです。
彼は長兄のヨハン・クリストフ・バッハに引き取られ彼から音楽の基礎を学びました。クリストフはオルガニストとしての経験を活かして弟に対して父親のような存在であり、音楽教育においても重要な役割を果たしていたようです。
兄から音楽の基礎を学びバッハは特にオルガン、そしてヴァイオリンの演奏に秀でていました。
彼は勉強熱心で月明かりの下で楽譜を写し取るエピソードが残っているほどです。
才能も勿論あったでしょうが、このような努力が彼の音楽的成功を育む土壌となったのです。
音楽一家の歴史
バッハ家の起源は16世紀に遡り、それ以降の数世代にわたって多くの音楽家を輩出しました。
中部ドイツにおいて音楽職人としての地位を確立し、その数なんと80人以上というバッハという名前の音楽家が活躍しました。
彼らは教会のオルガニストや宮廷楽師として名を馳せ、音楽界において重要な役割を果たしました。こうしてバッハ家は音楽の伝統を受け継ぎながら、次世代へとその影響を広げていきました。
先述の通りバッハ家はドイツ中部のチューリンゲン地方に根を持ち、この地域はバッハ家の音楽的伝統が育まれた場所で彼らの作品や演奏は地元の教会や宮廷で高く評価されました。エルフルト市ではバッハの名が町楽師の代名詞として用いられるほど、その影響力は絶大でした。
そしてのちにバッハ家の音楽家たちは彼らの作品と演奏によってヨーロッパ全体で高く評価されていきました。彼らの音楽は、地域の文化だけでなく、広くヨーロッパの音楽シーンにも影響を与え、バロック音楽の発展に寄与しました。
バッハ家の音楽家たちは世襲的な音楽職人の伝統と敬虔なルター派信仰によって結束を強めていました。
この信仰は、彼らの音楽活動に深く根付いており作品の中に宗教的なテーマが色濃く反映されています。
18世紀前半には、J.S.バッハを頂点とする未曾有の音楽的ブームが生まれましたが、その後は急速に衰退し、19世紀前半には音楽的な活動がほぼ絶えました。
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聖ミカエル学校での教育 バッハの声質はなんと…
1700年、ヨハン・セバスティアン・バッハは、リューネブルグの聖ミカエル学校に入学しました。
この学校は、当時のドイツにおいて名門校として知られ特に音楽教育に力を入れていました。バッハは、音楽的才能を持つ少年として、奨学金を得てこの学校に通うことができました。
聖ミカエル学校ではバッハは勿論音楽だけでなくラテン語、神学など多岐にわたる科目を学びました。
音楽教育については彼は音楽理論や作曲技法の基礎を身につけることができました。
かなり意外な点としては、バッハは聖ミカエル学校の合唱団ではソプラノとして活躍し、その歌声で注目を集めていたことです。
私の個人的な感想ですが、音楽からも肖像画からもなんとなく、絶対にバス、のイメージでした。。
この合唱団での経験は、彼の音楽的才能を磨く貴重な機会となり、演奏技術や音楽表現力を高めることに寄与しました。
こうした聖ミカエル学校での学びを通じてバッハはヨーロッパの音楽文化と宗教に満遍なく触れることができたはずです。
この経験が彼の後の作曲活動において重要な影響を与え、特にバロック音楽の発展に寄与することとなったともいえるかもしれません。
実際バッハの作品には当時の音楽スタイルや技法が色濃く反映されているといえます。
何曲作った?バッハの作品数
バッハは何曲作ったか?
なんと1,128の作品数を誇ります。
この数は、彼の音楽的な生産性の高さを示しており、他の著名な作曲家と比較しても際立っています。
例えば、幼少時から作曲をしていたモーツァルトでさえ620曲、ベートーヴェンは140曲です。
1128というバッハの作品数は本当に一人なのかと思うほど圧倒的です。文学でいえば実在が疑われるシェークスピアのような存在といえるかもしれません。
このような多作性は、彼の音楽的探求心と創造力の賜物であり、バロック音楽の発展に大きく寄与しました。
バッハの代表作には『ブランデンブルク協奏曲』や『マタイ受難曲』があり、これらは彼の音楽的遺産の中でも特に重要な位置を占めています。
『ブランデンブルク協奏曲』は、彼の器楽音楽の頂点を示す作品であり、各楽器の独自性を引き出す巧妙な編成が特徴です。
『マタイ受難曲』は、彼の宗教音楽の深さと感情表現を体現しており、特にそのドラマティックな構成と美しいメロディは、聴衆に強い印象を与えます。
こちらはバッハの出生地アイゼナハの聖ゲオルク教会でのマタイ受難曲の演奏
バッハの作品は、宗教音楽、器楽曲、カンタータなど多岐にわたります。
彼は、教会音楽において特に多くのカンタータを作曲し、これらは彼の信仰心と音楽的才能を融合させたものです。
また、器楽曲においても、彼の作品はバロック時代のスタイルを代表するものであり特にフーガや協奏曲の形式においてその技術が際立っています。
バッハの音楽の特徴は、対位法を駆使した複雑な構造と深い感情表現にあります。
彼は、異なる旋律を同時に組み合わせることで豊かな音楽的テクスチャを生み出しました。この技術は、彼の作品における感情の深さを強調し、聴衆に強い印象を与えます。
バッハの音楽的影響
バッハの音楽は彼の死後も多くの作曲家に影響を与え続けました。
彼の対位法や和声の技術は、モーツァルトやベートーヴェンをはじめとする後の作曲家たちにとって重要な学びの源となりました。
バッハの作品は音楽の構造的な美しさと感情的な深みを兼ね備えており、これが彼の音楽が後世にわたって評価される理由の一つです。
19世紀に入るとバッハの音楽はフェリックス・メンデルスゾーンによって再評価され彼の作品が広く演奏されるようになりました。
メンデルスゾーンは、バッハの「マタイ受難曲」を復活させ、その演奏を通じてバッハの音楽の重要性を再認識させました。
この復興は、バッハを「ドイツ音楽の父」として位置づける契機となり、彼の音楽がクラシック音楽の中での地位を確立する助けとなりました。
バッハの作品は、音楽教育においても重要な役割を果たしています。
彼の楽曲は、学生たちが対位法や和声の技術を学ぶための教材として広く使用されており、特に「平均律クラヴィーア曲集」や「フーガの技法」は、音楽理論の基礎を学ぶ上で欠かせない作品とされています。
これにより、バッハの音楽は次世代の音楽家たちにとっても重要な学びの資源となっています。
今日においてもバッハの音楽はクラシック音楽の重要な一部として広く愛されています。
彼の作品は、オーケストラや合唱団によって頻繁に演奏され、また多くの現代の作曲家にも影響を与え続けています。その文化的遺産は今後も受け継がれていくことでしょう。
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