ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとアントニオ・サリエリ。この二人の名前を聞くと多くの人が「天才と凡才」「敵対関係」というイメージを持つかもしれません。
映画『アマデウス』で広く知られるようになった二人の関係は実際はどのようなものだったのでしょうか。
歴史的証拠と映画の創作の間には大きな隔たりがありこの二人の古典期を代表する作曲家の真の関係はずっと複雑で興味深いものだったのです。18世紀後半のウィーンで活躍した二人の作曲家の実像に迫ります。
18世紀ウィーンの音楽事情とふたりの立場
文化都市ウィーンの政治的背景
18世紀末のウィーンは音楽界のエリートがひしめく文化大国でした。ハプスブルク家の支配下にあったこの都市では皇帝ヨーゼフ2世が啓蒙専制君主として文化的発展を積極的に推進していました。
音楽は単なる娯楽ではなく政治的・社会的な力を持つものとして重視されていました。皇帝の後援を受ける宮廷音楽家は地位と名声を得られる一方で自由な創作活動には一定の制約もありました。宮廷での立場は経済的安定をもたらすと同時に、その時代の貴族社会の趣味や好みに合わせた作曲を求められたのです。
この時代のウィーンでは階級社会が色濃く残っていて、芸術家の社会的地位や成功は必ずしも才能だけで決まるものではありませんでした。人脈や政治的立ち回りの巧みさも重要な要素だったのです。
確立された地位を持つサリエリ
イタリア出身のアントニオ・サリエリ(1750-1825)はウィーンの音楽界で確固たる地位を築いていました。彼はハプスブルク家の宮廷楽長(カペルマイスター)として強大な権力と影響力を持っていたのです。
サリエリはオペラを中心に活躍し当時のウィーン市民に頻繁に演奏される音楽を作曲する機会に恵まれていました。宮廷内での彼の地位は威信だけでなく裕福で影響力のあるパトロンとのネットワークをもたらしていたのです。
サリエリは教育者としても高く評価されていました。彼の指導力と生徒への献身的な姿勢は広く知られ、ベートーヴェン、シューベルト、リストといった後に大成する多くの弟子たちを育てました。彼の作曲スタイルは伝統的なイタリアオペラの様式を守り当時の聴衆の嗜好に沿った作風で人気を集めていたのです。
アウトサイダーとしてのモーツァルト
対照的にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)はウィーンでは多くの点でアウトサイダーでした。彼はザルツブルク出身で、ウィーンに比べるとずっと小さな街から来た「地方出身者」だったのです。
モーツァルトの父レオポルド・モーツァルトはザルツブルクの宮廷に仕える音楽家でしたが息子のモーツァルトは独立のためにザルツブルクを離れました。1781年、モーツァルトは自分の名を上げることを決意してウィーンに移住。彼の非凡な才能はすぐに注目を集めウィーンの音楽シーンで瞬く間に話題になりました。
しかし型破りな行動や財政管理の不得手さ、そして伝統的なパトロン制度に従わない姿勢から彼はしばしばウィーンの音楽界の主流派と対立することになります。モーツァルトは自由な創作活動を求めて宮廷音楽家としての安定した職を辞し、当時としては珍しい「フリーランス」の作曲家として活動していたのです。
二人の関係性:競争と尊敬の狭間で
神話化された敵対関係
モーツァルトとサリエリの関係はピーター・シェイファーの戯曲とミロス・フォアマン監督による1984年の映画『アマデウス』で大きく神話化されました。映画では凡庸な才能しか持たなかったサリエリが神から授かった才能を持つモーツァルトに激しい嫉妬を抱き最終的に彼を死に追いやったという筋書きになっています。
しかしこの物語は歴史的事実というより芸術的脚色に基づいたフィクションです。この創作が多くの人々の心に響いたのは「凡庸な者が天才を妬む」という普遍的なテーマを巧みに描き出したからでしょう。映画の成功によってサリエリがモーツァルトを毒殺したという根拠のない噂が広く信じられることになったのは皮肉なことです。
実際モーツァルトの死因についてはリウマチ熱や腎不全など様々な説があり、サリエリが関与したという証拠は歴史的に確認されていません。サリエリ自身が晩年に「モーツァルトを毒殺した」と告白したという噂もありましたが、これは当時患っていた精神疾患の影響だと考えられています。
実際の専門的関係
歴史的証拠に基づくとモーツァルトとサリエリの関係はもっと複雑で微妙なものでした。確かに二人はライバルでしたが、それは当時のウィーンの競争的な音楽環境の中では自然なことでした。同じ聴衆やパトロンを求めて競争するのは当時の作曲家にとっては日常的なことだったのです。
二人は同じ界隈で活動し同じコンサートに出演することもありました。また声楽とピアノのためのカンタータ「オフェリアの敬愛のために」を共同で作曲したという記録も残っています(残念ながらこの作品は現存していません)。共作をしたという事実自体が少なくとも一定の協力関係があったことを示していると言えるでしょう。
モーツァルトは妻コンスタンツェに宛てた手紙の中でサリエリが「魔笛」の公演に参加し「とても熱心に聴き見入っていた」と書いています。またサリエリはモーツァルトの音楽を公然と賞賛していたという証言もあります。これらは二人が互いの音楽的才能を尊重し合っていた証拠と言えるでしょう。
音楽的アプローチの違い
二人は同じような環境で活動し同じような聴衆のために作曲していましたが音楽へのアプローチは異なっていました。サリエリの音楽は当時の嗜好に沿った伝統的なスタイルを守るものでした。彼の作品は職人的で既成の音楽的慣習に忠実であることが特徴です。
一方モーツァルトの音楽はより革新的で大胆だと評価されることが多かったのです。彼は形式や和声の境界を押し広げることに意欲的で時に聴衆や批評家を驚かせることもありました。「あまりに多くの音符がある」という当時の批評は彼の音楽の複雑さと斬新さを物語っています。
真実はわからないのですが有名な逸話として、サリエリとモーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世主催のコンクールに参加したと言われています。
この「コンテスト」では二人の作曲家に一つの主題に対する変奏曲を依頼しました。サリエリの変奏曲はエレガントで洗練されていると評価され、モーツァルトの変奏曲は複雑で想像力に富んでいると賞賛されたと言われています。この逸話は二人の異なる音楽的アプローチを象徴しているのかもしれません。
モーツァルトの早すぎる死とその後の展開
モーツァルトの晩年と死
1791年12月5日、モーツァルトは35歳という若さでこの世を去りました。死の直前まで「レクイエム」の作曲に取り組んでいたことはよく知られています。この作品は未完成のまま残され後に弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーによって完成されました。
モーツァルトの死因については様々な説があります。長らく言われてきた「毒殺説」は現代の医学的観点からは否定されていてリウマチ熱、腎不全、溶血性連鎖球菌感染症など当時の医療では効果的に治療できなかった病気が原因だったと考えられています。
モーツァルトの葬儀は当時のウィーンの習慣に従い質素なものでした。これが「貧者の墓に埋葬された」という誤解を生む原因になりましたが実際は中流階級の標準的な葬儀だったとされています。
サリエリのその後と名誉回復
モーツァルトの死後もサリエリはウィーンの音楽界で影響力のある地位を保ち続けました。彼は教育者として多くの著名な弟子を育てその中にはモーツァルトの息子フランツ・クサーヴァー・モーツァルトも含まれていました。モーツァルトの息子を指導したという事実はサリエリとモーツァルト家の間に敵意があったとする説と相容れないものです。
晩年のサリエリは認知症を患い「モーツァルトを毒殺した」と告白したという噂が広まりました。しかしこの「告白」は歴史家によって否定されています。当時の医学では精神疾患への理解が不十分だったためサリエリの言動は病気の兆候として正しく認識されなかったのでしょう。
サリエリは1825年に75歳で亡くなりました。彼の作品は19世紀中にほとんど忘れられてしまいましたが20世紀後半から歴史的再評価が進み現在では彼の音楽は古典派音楽の重要な一部として認識されています。皮肉なことに映画『アマデウス』で「悪役」として描かれたことが、サリエリの音楽への関心を新たに呼び起こすきっかけになったとも言えるでしょう。
歴史的評価の変遷
時代を経るにつれモーツァルトとサリエリの関係についての見方は変化してきました。19世紀にはロマン主義的な「天才伝説」の一部として二人の敵対関係が強調される傾向がありました。「天才モーツァルト vs 凡才サリエリ」という単純な図式は物語として魅力的だったのでしょう。
しかし20世紀後半から現代にかけてより実証的な音楽史研究が進みこの神話的な物語は修正されつつあります。現代の音楽史家は二人の関係をより複雑で多面的なものとして捉えるようになりました。
サリエリの音楽そのものも再評価され彼が単なる「保守的な凡庸な作曲家」ではなく当時の音楽様式の中で優れた作品を残した重要な作曲家であることが認識されるようになっています。2004年には英国で初めてサリエリのオペラ「ファルスタッフ」が全曲上演されその音楽的価値が再発見されました。
モーツァルトとサリエリの音楽を比較する
それぞれの代表作
モーツァルトの代表作としてはオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、交響曲第40番、第41番「ジュピター」、ピアノ協奏曲第20番、第21番、そして未完のレクイエムなどが挙げられます。彼の作品は形式美と革新性を兼ね備え複雑な感情表現と洗練された構造が特徴です。
一方サリエリの代表作にはオペラ「タラーレ」「アクシュール」「ファルスタッフ」などがあります。彼の音楽は伝統的なイタリアオペラの様式を基礎としながらもフランスオペラの要素も取り入れた折衷的なものでした。特にオペラでの声楽表現の巧みさは高く評価されています。
二人の作曲スタイルには明確な違いがありますがどちらも18世紀後半の音楽的慣習の中で優れた作品を生み出した点では共通しています。モーツァルトは斬新さと普遍性で、サリエリは洗練と均整のとれた美しさでそれぞれ当時の聴衆を魅了したのです。
二人の音楽的特徴と影響
モーツァルトの音楽は複雑な対位法と明晰な旋律線の融合、予想外の和声進行、そして様々な感情を表現する豊かな音楽言語が特徴です。彼の音楽は時に技巧的に複雑でありながら素人の聴衆にも直感的に理解できる魅力を持っています。
モーツァルトはわずか35年の生涯で600曲以上の作品を残し、そのスピードと多作さも驚異的です。有名な交響曲第41番「ジュピター」はわずか数週間のうちに他の二つの交響曲と共に書き上げられました。
一方サリエリの音楽は均整のとれた形式と情緒的な声楽表現が特徴です。彼はオペラでの劇的表現に長け登場人物の感情や状況を音楽で効果的に描写することに秀でていました。「タラーレ」などの作品では政治的な要素も取り入れた先進的なオペラの形を示しています。
二人の音楽的な違いは「天才 vs 凡才」という単純な構図ではなくむしろ異なる美学と芸術的アプローチの対比として理解すべきでしょう。モーツァルトが革新性と直感的な天才で知られるならサリエリは伝統への深い理解と職人的な技巧で評価されるべき作曲家なのです。
モーツァルトとサリエリについての真実と誤解
映画『アマデウス』の創作と事実
映画『アマデウス』(1984年)は芸術作品として傑出していますが歴史的正確さという点では多くの脚色があります。ここでは映画の描写と歴史的事実の主な相違点を見てみましょう。
映画ではサリエリはモーツァルトに激しい嫉妬を抱き彼を破滅させようと画策する「悪役」として描かれています。しかし歴史的証拠によればサリエリはモーツァルトの音楽を評価し時には公開の場で褒め称えていたことがわかっています。
また映画ではモーツァルトが幼稚で下品な性格の持ち主として描かれていますがこれも一面的な描写です。実際のモーツァルトは確かにユーモアのセンスを持ち時に直接的な表現を用いる人物でしたが同時に真面目な音楽家であり深い思想を持つ教養人でもありました。
映画の中でモーツァルトは「笑い声」で特徴づけられていますがこれは完全な創作です。またサリエリがモーツァルトの死に直接関与したという設定も史実とは異なります。
よくある質問と回答
サリエリは本当にモーツァルトを毒殺したのですか?
いいえ、サリエリがモーツァルトを毒殺したという証拠はありません。モーツァルトの死因は現代医学の見地からは感染症や腎不全などの自然死だったと考えられていることが多いです。
サリエリが晩年に「モーツァルトを殺した」と告白したという噂もあるようですが、これは当時患っていた精神疾患の影響だとされています。
二人は本当に敵対していたのですか?
完全な敵対関係にあったわけではありません。確かに職業的なライバル関係はあったでしょうが同時に互いの才能を認め合う同僚としての一面もありました。モーツァルトは手紙でサリエリが自分のオペラを褒めていたことを記しておりサリエリはモーツァルトの死後、彼の息子の音楽教育を引き受けています。
サリエリの音楽的才能はモーツァルトに比べて劣っていたのですか?
これは単純な「はい」「いいえ」では答えられない問題です。サリエリは当時の音楽界で高く評価された作曲家で特にオペラでの才能は際立っていました。
モーツァルトが独創性と普遍的な魅力で際立っていたのに対しサリエリは伝統的な様式の中での完成度と劇的表現で優れていたと言えるでしょう。両者の比較はむしろ異なる音楽的アプローチの対比として理解すべきです。
なぜ映画『アマデウス』のような創作が広く信じられるようになったのですか?
この物語が人々の心に響くのは「凡庸な者が天才を妬む」という普遍的なテーマを扱っているからでしょう。また実際のモーツァルトの早すぎる死と未完のレクイエムという悲劇的要素がドラマチックな物語に説得力を与えています。さらに映画としての完成度が高く強い印象を残したことも大きな要因でしょう。
まとめ
モーツァルトとサリエリの関係は単純な敵対関係ではなく18世紀ウィーンの複雑な音楽的・社会的環境の中で形作られた多面的なものでした。二人は確かに同じ聴衆やパトロンを求めるライバルでしたが同時に互いの才能を認め合う同僚でもあったのです。
映画『アマデウス』で描かれた「嫉妬に駆られたサリエリがモーツァルトを破滅させる」というドラマチックな物語は芸術作品としては素晴らしいものの歴史的事実とは異なります。サリエリは凡庸な作曲家ではなく当時高く評価された重要な音楽家でありモーツァルトの死に関与したという証拠もありません。
二人の音楽的アプローチの違いはむしろ18世紀後半の音楽における異なる美学と芸術的志向を反映したものと理解すべきでしょう。モーツァルトが革新と普遍性を追求したのに対しサリエリは伝統と洗練を重視しました。
歴史的事実に基づくと彼らの関係はより複雑で興味深いものです。神話を超えて二人の実際の音楽と歴史的文脈を理解することで古典派音楽の豊かな世界をより深く味わうことができるのではないでしょうか。