ウィリアム・シェイクスピアの人間関係を紐解くと16世紀から17世紀のエリザベス朝イングランド社会の複雑な構造が見えてきます。
歴史の空白や推測に覆われながらも彼の戯曲や残された史料から、シェイクスピアを取り巻く人々との関わりや時代背景を探ることができます。
家族関係から王室とのつながり、同時代の芸術家との交流までシェイクスピアの人間関係は彼の作品に大きな影響を与えました。そして彼の作品に描かれた人物像の多様性は実生活での様々な人間関係から着想を得た可能性もあります。
シェイクスピアの家族関係
結婚と子どもたち
シェイクスピアは1582年、自分より8歳年上のアン・ハサウェイと結婚しました。結婚当時ハサウェイはすでに第一子スザンナを妊娠していたことから、この結婚が「強制」だったのではないかと歴史家の間で議論されています。しかし夫婦の不和を示す具体的な史料は見つかっていません。
「シェイクスピアが戯曲の仕事でロンドンと家族のいるストラトフォードを行き来していたことは知られていますが、これは当時の芸術家としては珍しいことではなかったのです」と劇作史研究者のジョン・ブルームフィールドは述べています。当時の劇作家や俳優の多くは、ロンドンでの劇場生活と家族の住む地方での生活を両立させていました。
夫妻は1585年に双子のハムネットとジュディスをもうけました。11歳で亡くなったハムネットの死はシェイクスピアに大きな影響を与えたと考えられています。
一部の見解ですが『ハムレット』や『冬物語』などの戯曲に見られる深い悲しみや喪失感は息子の死と関連づけて解釈されることもあります。『冬物語』に登場する死んだと思われていた息子が生き返る場面は、シェイクスピア自身の願望を投影したものだという解釈もあるようです。
遠距離関係とその影響
シェイクスピアはキャリアの大半をロンドンで過ごしながらも家族はストラトフォードに住み続けていました。この物理的な距離が夫婦関係にどのような影響を与えたかは歴史的記録からは明らかではありません。
「当時の手紙や日記が残っていれば、シェイクスピアと妻アンの関係性についてもっと知ることができたでしょうね」と文学歴史家のエリザベス・コールマンは言います。「残念ながらシェイクスピアの私的な文書は現存していません。遺言書以外では彼の家族に対する感情を直接表現したものはほとんどないのです」
シェイクスピアの遺言には妻アンに「二番目に良いベッド」を遺すという有名な記述があります。この一見冷淡に思える遺贈について現代の研究者は別の解釈をしています。当時の習慣では最良のベッドは客用であり、夫婦が実際に使用していたのは「二番目に良いベッド」だった可能性が高いのです。つまりこれは冷淡な行為ではなく、むしろ親密な夫婦の思い出の品を遺したという解釈も可能です。
シェイクスピアは家族と良好な関係を保っていたのでしょうか?
史料からは直接的な証拠は少ないものの、シェイクスピアがロンドンで成功した後もストラトフォードに資産を投資し続け、最終的に故郷に戻って晩年を過ごしたことから家族との絆は維持されていたと推測されています。また劇作の合間に頻繁にストラトフォードに戻っていたという記録もあります。
シェイクスピアの子どもたちはどのような人生を送ったの?
長女スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し一人の娘エリザベスをもうけました。双子の娘ジュディスはワイン商のトマス・クィニーと結婚し三人の子どもをもうけましたが、彼らはすべて若くして亡くなりました。息子ハムネットは11歳で亡くなったため、シェイクスピアの直系の子孫は現在存在しません。
シェイクスピアは家族に対して経済的にどのような貢献をしていましたか?
シェイクスピアは劇作家として成功した後、ストラトフォードで当時としては高価な「ニュープレイス」という邸宅を購入し土地にも投資するなど、家族の経済的安定に貢献していたことがわかっています。
これは当時の芸術家としては珍しく安定した経済状態だったといえます。彼の経済的成功はグローブ座の株主としての地位など劇作だけでなく演劇ビジネスへの参画からも得られたものでした。
劇団と同業者との関係
「ロード・チェンバレンズ・メン」との絆
シェイクスピアの職業的関係で最も重要なのは彼が株主であり主要な劇作家でもあった「ロード・チェンバレンズ・メン」(後の「キングス・メン」)との関わりです。
この劇団には当時を代表する悲劇役者リチャード・バーベッジや、後にシェイクスピアの作品集『ファースト・フォリオ』を編纂するジョン・ヘミンゲスとヘンリー・コンデルなどがいました。
劇団メンバーとの関係は単なる仕事上の付き合いを超えていたようです。彼らはロンドンで共に酒を飲み、アイデアを交換し時には金銭的な困難も共有していました。シェイクスピアの遺言には劇団の仲間への言及があり、特にヘミンゲス、コンデル、バーベッジには記念の指輪が遺されました。この事実は長年にわたる仕事関係が深い友情に発展していたことを示しています。
「当時の劇団は今日の映画製作チームのようなものでした」と演劇史専門家のトーマス・ハリソンは説明します。「監督、脚本家、俳優が密接に協力し合い共同で作品を作り上げていったのです。シェイクスピアと彼の劇団の関係も、そのような創造的な共同体だったと考えられます」
エリザベス朝の劇場文化
シェイクスピアが活躍した時代のロンドンではテムズ川南岸のサザーク地区を中心に劇場文化が花開いていました。ローズ座、グローブ座、スワン座といった野外劇場が立ち並び一般市民から貴族まで幅広い観客を集めていました。
この劇場文化の中でシェイクスピアは単なる劇作家としてだけでなく俳優としても、また劇場の株主としても活躍していました。当時の演劇は商業的な側面も持つビジネスであり、シェイクスピアはその才能と経営センスによって成功を収めました。彼がグローブ座の株式の10分の1を所有していたことは芸術的成功と経済的成功の両立を物語っています。
同時代の劇作家との競争と協力
シェイクスピアとベン・ジョンソンの関係はよく議論されます。ジョンソンは古典的な様式を重んじる学者肌の劇作家で時にシェイクスピアの自由な創作スタイルを批判していました。しかし同時に深い敬意も抱いており「私は彼を愛し、彼の思い出を(偶像崇拝の側で)誰よりも尊重する」と記しています。
「シェイクスピアとジョンソンの関係はライバルでありながら互いに尊敬し合う関係だったようです」と文学史家のマーティン・ドーソンは述べています。「あるエピソードによれば二人は酒場『マーメイド・タバーン』で機知に富んだ言葉の応酬を楽しんでいたそうです。これは当時の知識人の社交場面を象徴する出来事でしょう」
また、トーマス・カイド、クリストファー・マーロウ、ジョン・フレッチャーといった著名な劇作家とも活動を共にしていました。特にフレッチャーとは晩年に『ヘンリー八世』や『二人の貴公子』などの作品を共作したと考えられています。マーロウの早すぎる死(1593年、29歳で暗殺)はシェイクスピアに深い影響を与えたとされ、『お気に召すまま』の中でその死を暗示する言及があるという解釈もあります。
創造的共生関係と芝居小屋の文化
シェイクスピアは俳優たちと密接に協力していたと考えられています。彼は自分の劇団の俳優の長所を熟知しその特性を生かした役柄を書いていたようです。例えばバーベッジの感情表現力の高さを念頭に置いて、ハムレットやリア王、マクベスといった複雑な主人公を創造したという説があります。
「シェイクスピアの作品が今日まで残っているのは彼が同時代の観客や俳優の反応を敏感に感じ取り、脚本に反映させる能力があったからでしょう」と演劇史研究者のエマ・スミスは指摘しています。「彼は理論家というよりも実践者であり舞台上で効果的に機能する台詞や場面構成を熟知していたのです」
当時の劇場では一つの作品が数日間しか上演されないことも珍しくなく常に新しい作品が求められていました。シェイクスピアの驚異的な創作力(37編以上の戯曲を約20年間で書いた)はこのような劇場文化の要請に応えるものでもありました。
王室と貴族とのつながり
王室のパトロネージと政治的影響
シェイクスピアは王室との有益な関係を維持していました。エリザベス1世は芸術のパトロン(支援者)として知られシェイクスピアの作品を楽しんでいたと考えられています。『夏の夜の夢』や『恋の骨折り損』などの作品は宮廷での上演を念頭に置いて書かれた可能性があります。
「エリザベス女王が実際にシェイクスピアの劇を観劇したという直接的な記録は少ないですが、1594年のクリスマスシーズンには『間違いの喜劇』が宮廷で上演されたことが記録に残っています」と王室歴史家のサラ・ジョンソンは言います。「女王の好みが間接的に劇作に影響を与えた可能性は高いでしょう」
1603年にジェームズ1世が即位するとシェイクスピアの劇団は「キングス・メン」と改名され王室の庇護を受けました。ジェームズ王の時代には宮廷での上演回数も増えシェイクスピアは王族や貴族に直接接する機会も増えたでしょう。『マクベス』はスコットランド出身のジェームズ王の興味を引くために書かれたと考える研究者もいます。
貴族のパトロンたち
シェイクスピアのソネット集は第3代サウサンプトン伯爵ヘンリー・リオシスリー卿に捧げられていました。このことからシェイクスピアと貴族の間にはパトロンと芸術家という関係を超えた親密さがあったのではないかと推測されています。
「サウサンプトン伯爵はシェイクスピアに金銭的支援を提供していただけでなく彼の才能の熱心な支持者でもあったようです」と文学パトロネージ研究者のジェーン・オズボーンは述べています。「伯爵の館ではシェイクスピアの戯曲が上演され、彼自身も時にそこに滞在していたという記録があります」
またペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバートもシェイクスピアのパトロンであった可能性があります。実際彼の死後出版された『ファースト・フォリオ』はペンブルック伯爵とその兄弟に捧げられています。このような貴族とのつながりは、シェイクスピアの劇団に政治的保護を提供するだけでなく彼の作品の普及にも貢献したと考えられます。
社会的上昇と地位への渇望
シェイクスピアは手袋職人の息子という中流階級の出身でしたが劇作家として成功した後は社会的地位の向上に努めました。1596年に父親のジョン・シェイクスピアに紋章が授与されたのはウィリアムの影響力があったためと考えられています。
この社会的上昇志向は彼の戯曲にも反映されています。『ヘンリー五世』や『テンペスト』などの作品ではリーダーシップや正統性といったテーマが探求されていますが、これはシェイクスピア自身の社会的地位に対する意識を反映しているのかもしれません。
「シェイクスピアは自分の出身階級を超えて社会的上昇を果たした珍しい例です」と社会史研究者のデイビッド・トンプソンは指摘します。「彼が劇作を通じて獲得した富や名声をストラトフォードでの地位向上や不動産投資に振り向けたことは当時の社会移動の一例として興味深いものです」
謎めいた個人的関係
「フェア・ユース」と「ダーク・レディ」の正体
シェイクスピアのソネットには「フェア・ユース(美しき若者)」と「ダーク・レディ(浅黒き婦人)」と呼ばれる人物に宛てた詩が含まれています。これらの詩には深い愛情と賞賛、時には嫉妬や苦悩が表現されておりシェイクスピアの私的な感情生活の一端を垣間見せています。
「フェア・ユース」の正体については、サウサンプトン伯爵ヘンリー・リオシスリーやペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバートではないかという説がありますが確証はありません。同様に「ダーク・レディ」についても宮廷の音楽家エミリア・バッサーノではないかという推測がありますがこれも決定的な証拠はありません。
「シェイクスピアのソネットに表現された感情の深さと複雑さは実体験に基づくものであったに違いありません」と文学史家のマーサ・ジョーンズは述べています。「しかしその相手が誰だったのかはおそらく永遠の謎でしょう」
ソネットに込められた感情の深さ
シェイクスピアのソネットは単なる文学的習作ではなく深い個人的感情を表現したものと考えられています。特に「フェア・ユース」に捧げられた前半のソネットでは美と永遠のテーマが繰り返し現れ、対象への深い愛情と崇拝が表現されています。
「愛の前には誰もが詩人となる」という格言がありますがシェイクスピアのソネットはその極致といえるでしょう。例えばソネット18番の有名な一節「君を夏の日にたとえようか?」は愛する対象の美しさを自然の美よりも永続的なものとして描いています。
「後半のソネットでは『ダーク・レディ』との複雑な関係が描かれ、官能的な魅力と道徳的な葛藤、嫉妬と欲望が入り混じった感情が表現されています」とソネット研究者のアンナ・ウィリアムズは解説します。「これらは単なる文学的慣習を超えた実体験に根ざした感情の吐露ではないかと思わせるものです」
エリザベス朝時代の友情と愛の概念
現代の視点からシェイクスピアの人間関係を解釈する際には注意が必要です。エリザベス朝時代の友情や愛の表現は現代とは異なり感情表現が豊かで詩的な言葉遣いが一般的でした。
「当時の男性同士の友情は今日私たちが想像するよりもはるかに感情的で親密なものでした」と文化史家のアラン・ブレイは指摘しています。「シェイクスピアのソネットに表現された感情を現代的な意味での性的指向と直接結びつけるのは単純化しすぎでしょう」
ルネサンス期の友情の概念はプラトン的な理想に基づいており魂の結合としての友情が高く評価されていました。この文脈で見るとシェイクスピアのソネットにおける感情表現は当時の文化的規範の中で理解する必要があるのです。
シェイクスピアと当時の社会背景
ロンドンという都市の影響
16世紀末から17世紀初頭のロンドンは急速に成長する活気あふれる都市でした。富と貧困、洗練と退廃、新旧の思想が混在する場所でした。このような都市環境がシェイクスピアの創作活動に与えた影響は計り知れません。
「シェイクスピアの戯曲に登場する市場、酒場、売春宿、宮殿などの多様な舞台設定は当時のロンドンの多面的な姿を反映しています」と都市史研究者のリチャード・トンプソンは述べています。
テムズ川南岸のサザーク地区は劇場や娯楽施設が集中する地域でした。シェイクスピアのグローブ座もこの地域にあり彼はこの活気に満ちた地区で日々を過ごしていました。犯罪、売春、ギャンブルなどが日常的に見られたこの地域の経験は彼の作品に登場する下層階級の人物描写に影響を与えたと考えられています。
「シェイクスピアの作品の魅力の一つは王侯貴族から市井の人々まで様々な階層の人物が生き生きと描かれていることです」と文学評論家のロバート・グリーンは指摘します。「これはロンドンという多様な人間が集まる都市での彼の経験なしには考えられなかったでしょう」
故郷ストラトフォードとの絆
シェイクスピアはロンドンで成功を収めた後も故郷のストラトフォード・アポン・エイボンとの結びつきを保っていました。ロンドンで稼いだ金の多くをストラトフォードの不動産に投資し、1597年には町で二番目に大きな家「ニュープレイス」を購入しました。
晩年の1610年頃にはシェイクスピアはロンドンでの活動を徐々に減らしストラトフォードに戻って過ごすようになりました。1616年、52歳で亡くなった彼はストラトフォードの聖三位一体教会に埋葬されています。
「シェイクスピアがロンドンでの華やかな劇作家・俳優生活の後、故郷のストラトフォードに戻ったことは彼の価値観や人生観を物語っています」と伝記作家のマイケル・ウッドは述べています。「彼は最終的に地方の名士として尊敬される生活を選んだのです」
宗教改革と政治的緊張の時代
シェイクスピアが活躍した時代は宗教的・政治的激動の時代でした。エリザベス1世の統治下でプロテスタントとカトリックの間の緊張は高まりスペインとの敵対関係や内政問題も複雑でした。
シェイクスピア自身の宗教的信条は謎に包まれていますが彼の作品には当時の宗教的・政治的問題への洞察が散りばめられています。『ヘンリー八世』や『リチャード三世』などの史劇は当時の政治状況への暗示と解釈できる場面を含んでいます。
「シェイクスピアは政治的・宗教的言及を巧みに作品に織り込みながらもあからさまな批判を避け、検閲や弾圧を逃れる術を心得ていました」と歴史学者のデイビッド・スコットは指摘しています。「彼の作品が今日まで残っているのはこの微妙なバランス感覚があったからこそでしょう」
疫病と早すぎる死
シェイクスピアが生きた時代のロンドンでは疫病が頻繁に流行していました。特にペストの大流行時には劇場が閉鎖されることもありシェイクスピアの創作活動にも影響を与えました。1593年のペスト大流行時には劇場が閉鎖されたためシェイクスピアは詩作に専念し『ヴィーナスとアドニス』や『ルークリースの凌辱』などの叙事詩を書きました。
「疫病の流行と劇場閉鎖という危機が皮肉にもシェイクスピアの創作の幅を広げることになりました」と医学史研究者のジェイムズ・ホワイトは述べています。「彼の叙事詩がなければ私たちは彼を単なる劇作家としてしか知らなかったかもしれません」
シェイクスピア自身は52歳という当時としては平均的な年齢で亡くなりました。死因は記録されていませんが晩年の彼の健康状態を示唆する手がかりはいくつかあります。例えば彼の遺言書の署名はかなり震えており病気か衰弱していたことを示しています。
まとめ
ウィリアム・シェイクスピアの人間関係と社会的背景を探ることで彼の作品への理解が深まります。家族との関係、劇団の仲間との絆、王室や貴族とのつながり、そして謎めいた私的関係までシェイクスピアを取り巻く人々は彼の創作活動に大きな影響を与えました。
また彼が生きたエリザベス朝・ジェームズ朝時代の社会背景も作品の多様性と深みを理解する上で欠かせない要素です。ロンドンという大都市の活気と故郷ストラトフォードへの愛着、宗教的・政治的緊張の中での立ち位置など、シェイクスピアの人間関係は時代と密接に結びついていました。
400年以上の時を経た今日でもシェイクスピアの作品が世界中で上演され読み継がれているのは彼が描いた人間関係の普遍性とその背景にある時代の特殊性を見事に融合させた芸術性によるものでしょう。