ヴィンセント・ファン・ゴッホの「糸杉」
糸杉は1889年に死の前年のゴッホがサン・レミ・ド・プロヴァンスの精神病院サン・ポール・ド・モーソールに滞在している間に描かれた作品です。
この画家に深い感銘を与えたプロヴァンスの風景を描いたいくつかの作品のうちのひとつです。
ゴッホは糸杉の強靭で永続的な性質に惹かれた。弟のテオに宛てた手紙には、その独特の形とプロヴァンスの風に「耐える」姿に魅了され、「エジプトのオベリスクのように美しいラインとプロポーション」になっていると記している。
オベリスクはヨーロッパの各所にも立っているエジプトの神殿発祥の先端が尖った象徴的な柱である。ゴッホはジャポニズムが好きだったことだし日本の観点から言えば神社の門にある鳥居にその存在は似ている。
また、彼は糸杉を生と死の象徴としてとらえ、別の手紙では 「太陽が降り注ぐ風景の中の暗い部分」と記しています。ただ人間の死に対する自然の不滅性という見解もあるし、ポジティブな側面やネガティブな側面、両方受け取れるような批評が多いようだ。実際オベリスクはもともと太陽信仰の建造物でもあるし力強く天に向かって立っているオベリスクを彼はかなり多面的に見ていたのではないだろうか。
その絵はゴッホの特異なスタイルも示している。糸杉は空に向かってそびえ立ちその渦巻き模様は、うねる丘や雲と呼応している。そして色彩は鮮やかで対照的。
木々の深い緑と空の明るい青、麦畑の暖かい色調。ゴッホの円熟期の特徴である筆致のエネルギーはそのシーンにダイナミズムと感情の強さを与えているといえるだろう。画面に収まっているものもあるが先端がキャンバスに収まりきらないスケールで描かれていることも特徴だ。
技術的には「糸杉」はインパスト技法によるもので、絵具をキャンバスに厚く塗り、テクスチャーを作り出したものです。そうすることで木々の節目や空と丘の渦巻き模様を表現しているのである。
生前、ゴッホは認められるために苦闘した。ゴッホが売った絵は「赤いブドウ畑」1点だけで、「糸杉」が制作されてもすぐに賞賛されたわけではありません。
しかし、ゴッホの死後に彼の作品が劇的に見直されることになりました。ただ厳密に言うと彼は早く亡くなってしまった上に、画家としての活動期間が10年少しと短く、晩年には評価されている講評もないことはなかったのです。あと数年でも活動を続けていれば生きている内にもっと大きな評価を受けていたかもしれません。
「糸杉」は「アン・プレイン・エア」(屋外で絵を描き、その場の光や雰囲気を直接的に捉える技法)で描かれた可能性が高いことが挙げられます。
こうした手法はスタジオで描くのでもいいと考えるゴーギャンとの喧嘩の種にもなってしまいますが、ゴッホはこの技法をかなり熱心に実践し、被写体と直接つながることを重要視していたのです。
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