ドイツに同年生まれ【バッハとヘンデル】出会わなかった双璧

バッハとヘンデル 音楽

バロック音楽の巨匠として名高いヨハン・セバスチャン・バッハとジョージ・フリデリック・ヘンデル

同じ年に生まれ同じ国の出身でありながら生涯一度も会うことがなかった二人の作曲家の人生と音楽は対照的でありながらも多くの共通点を持っています。

教会音楽の巨匠バッハとオペラの名手ヘンデル、それぞれの個性的な音楽スタイルと人生の軌跡を辿りながら18世紀ヨーロッパ音楽界における二つの輝く星の物語に迫ります。

  1. バッハとヘンデル:驚くべき共通点
    1. 同時代を生きた音楽の天才たち
    2. 幼少期の共通する運命
    3. 宮廷音楽家としての活躍
    4. 晩年の悲劇的な共通点
  2. 対照的な音楽キャリアと作風
    1. バッハ:信仰に根差した教会音楽の大家
    2. ヘンデル:国際的な活躍とオペラの成功
    3. 作品スタイルの対比
  3. Q&A:バッハとヘンデルの音楽の違いは何ですか?
    1. バッハとヘンデルの音楽スタイルの最大の違いは何ですか?
    2. 二人の音楽家の名声はその生涯でどう違っていましたか?
    3. 二人の音楽的影響はどのように後世に残りましたか?
  4. 幻の出会い:バッハとヘンデルの交差しなかった人生
    1. バッハのヘンデルへの敬意
    2. ヘンデルからバッハへの評価
    3. ヘンデルに会ったバッハもいる!?
  5. バッハとヘンデルの対照的な人生航路
    1. ヘンデル:国際派の音楽起業家
    2. バッハ:地域に根ざした音楽教育者
    3. 対照的な評価と後世への影響
  6. 「二つのB」:音楽史における位置づけ
    1. バロック音楽の集大成と革新
    2. バッハとヘンデルの現代での受容
    3. 現代の演奏実践と解釈
  7. 知られざるエピソード:バッハとヘンデルの音楽生活
    1. バッハの日常:多忙な教会音楽家の生活
    2. ヘンデルの社交生活:ロンドン上流社会との交流
  8. Q&A:バッハとヘンデルの個性と生活スタイルの違いは?
    1. バッハとヘンデルの性格や生活スタイルの違いはどのようなものでしたか?
  9. まとめ

バッハとヘンデル:驚くべき共通点

同時代を生きた音楽の天才たち

1685年、現在のドイツにあたる地域で、わずか80マイル(約130キロメートル)離れた町で二人の音楽家が誕生しました。

アイゼナッハに生まれたヨハン・セバスチャン・バッハとハレに生まれたジョージ・フリデリック・ヘンデルです。二人はともに幼い頃に音楽の才能を発揮し地理的にも近く同時代を生きたにもかかわらず生涯を通じて一度も会うことはありませんでした。

この時代は「バロック音楽」と呼ばれる様式が花開いた時代でした。装飾的で華麗な音楽表現が特徴で通奏低音をベースとした和声進行や感情表現を重視した作曲技法が発展していました。バッハとヘンデルはこのバロック音楽の頂点に君臨する存在でありながらそれぞれ独自の道を歩んでいったのです。

幼少期の共通する運命

バッハとヘンデルには幼少期に共通する経験がありました。

二人とも幼い頃に片親または両親を亡くしています。バッハは10歳で母を、その翌年に父を亡くし兄の家に引き取られました。ヘンデルは父親の死こそバッハより遅かったものの父親から音楽家になることを強く反対されていた点でも苦労を共にしていたといえます。

バッハの父ヨハン・アンブロジウスは町の楽師として活躍していましたが、ヘンデルの父ゲオルク・ヘンデルは外科医であり息子には法律家になることを望んでいました。ヘンデルは幼少期、父親の目を盗んで練習するために屋根裏部屋に小さなクラヴィコード(小型の鍵盤楽器)を隠していたというエピソードも残っています。

二人とも若くして音楽の才能を認められ教会や宮廷で仕事を得るようになりました。バッハは15歳でリューネブルクの聖ミカエル教会合唱団に入り、ヘンデルは17歳でハンブルク・オペラ座のヴァイオリン奏者となっています。

宮廷音楽家としての活躍

バッハはワイマールやケーテンの宮廷で、ヘンデルはイギリスの宮廷で活躍するなど二人とも当時の有力な庇護者から支援を受けていました。この時代の音楽家にとって有力な支援者の存在は創作活動を続けるために不可欠でした。バッハはドイツの諸侯に仕え、ヘンデルはイギリスのジョージ1世やジョージ2世といった王家の支援を受けていました。

バッハはヴァイマールでは宮廷オルガニストと室内楽団員として、ケーテンではカペルマイスター(楽長)として勤務しました。ケーテンのレオポルド公はバッハの才能を高く評価し創作の自由と良い待遇を与えました。この時期にバッハは「ブランデンブルク協奏曲」などの世俗音楽の傑作を生み出しています。

ヘンデルはジョージ1世から年金を与えられ王室の音楽教師や公式行事の音楽を担当するなど厚遇されました。「王宮の花火の音楽」や「水上の音楽」といった作品は王室の行事のために作曲されたものです。特に「水上の音楽」は、テムズ川でのジョージ1世の船遊びの際に演奏されたことで知られています。

晩年の悲劇的な共通点

あまり知られていませんがバッハとヘンデルには晩年に同じ悲劇が訪れています。

二人とも晩年に視力を失い同じ眼科医ジョン・テイラーによる手術を受けています。テイラーは当時「カタラクト・クーチャー(白内障専門医)」を自称していましたが彼の手術は二人の視力回復につながるどころかむしろ悪化させたといわれています。

ヘンデルは1751年頃から視力が悪化し始め徐々に失明していきました。それにも関わらず彼は演奏会に出演し続けオルガニストとして即興演奏を行っていました。バッハも1749年から1750年にかけて完全に視力を失いましたが最後まで作曲を続け死の直前まで「フーガの技法」の執筆に取り組んでいたといわれています。

興味深いのはテイラー医師自身も晩年には失明したという皮肉な運命をたどったことです。彼はヨーロッパ中を旅して多くの患者の手術を行いましたがその技術は現代の医学的観点からは非常に危険なものだったのです。

対照的な音楽キャリアと作風

バッハ:信仰に根差した教会音楽の大家

バッハは生涯を通じて教会のために作曲し深い信仰心を持った人物でした。

彼の作品の多くには「S. D. G.」(Soli Deo Gloria、神にのみ栄光あれ)という献辞が記されていることからもその信仰の深さがうかがえます。

彼の音楽はポリフォニー(多声音楽)の複雑さと厳格なフーガ形式に特徴があります。特にライプツィヒのトーマス教会のカントルとして過ごした27年間は毎週日曜日のためのカンタータを作曲するという膨大な仕事をこなしていました。この期間だけでも約300曲のカンタータを作曲したと考えられていますが現存するのはその約3分の2程度です。

バッハの音楽にはルター派の伝統が色濃く反映されていますが同時にイタリアやフランスの様式も取り入れ独自の総合的なスタイルを確立しました。「マタイ受難曲」や「ミサ曲ロ短調」といった宗教的な大作はバッハの信仰と音楽的才能が結実した傑作です。

バッハの器楽曲も非常に重要で「平均律クラヴィーア曲集」は12の長調と12の短調すべてにおける前奏曲とフーガを収録した革新的な作品です。

この作品は後の音楽家たちに大きな影響を与え調性音楽の基礎を築きました。また「無伴奏チェロ組曲」や「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」などの作品はそれぞれの楽器の技術的可能性を極限まで追求した傑作として今日も演奏され続けています。

ヘンデル:国際的な活躍とオペラの成功

ヘンデルはバッハとは対照的に国際的に活躍した作曲家でした。

若い頃にイタリアに渡り当時最先端のオペラを学んだ後、1710年にイギリスに移住し後にイギリスに帰化しています。ロンドンを拠点に活動したヘンデルはイタリア風のオペラやイギリスのオラトリオで名声を博しました。

ヘンデルは1720年代から1730年代にかけてロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックという歌劇団の音楽監督として活躍し「ジュリオ・チェーザレ」「リナルド」「アルチーナ」などの傑作オペラを次々と発表しました。イタリアオペラの様式を取り入れながらもヘンデル独自のドラマティックな表現と美しいアリアで観客を魅了しました。

1730年代後半になるとイギリスでのイタリアオペラの人気が衰退し始めたため、ヘンデルはイギリス語による宗教的な内容のオラトリオに活動の中心を移しました。「メサイア」「イスラエル・エジプトにて」「サムソン」などのオラトリオは聖書の物語に基づきながらも劇的な効果を持った作品で、特に「メサイア」の「ハレルヤ・コーラス」は今日でも最も有名な合唱曲の一つとなっています。

ヘンデルの音楽は壮大でドラマチックでありメロディの創意工夫に富んでいます。「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」といった管弦楽曲も今日でも人気がありその魅力的な旋律と華やかな音色で多くの人を魅了し続けています。

作品スタイルの対比

バッハとヘンデルの作品スタイルを対比するとそれぞれの個性がより鮮明に浮かび上がってきます。

バッハの音楽は複雑で入り組んだ対位法が特徴で一つの作品の中に複数の独立した声部が絡み合いながら進行します。その緻密な構造と深遠な表現は聴く者に知的な満足と精神的な深みをもたらします。

一方、ヘンデルの音楽はより直接的で分かりやすくドラマティックな効果を重視しています。特に声楽作品においては人間の感情を直接的に表現するアリアやレチタティーヴォ(語り)が効果的に使われています。ヘンデルの合唱曲は力強く壮大で聴衆を圧倒する迫力を持っています。

バッハが内面的な宗教的信仰を音楽で表現したのに対しヘンデルは外向的で劇的な効果を追求したといえるでしょう。どちらも同じバロック時代の作曲家でありながらまったく異なるアプローチで音楽を創造したのです。

Q&A:バッハとヘンデルの音楽の違いは何ですか?

バッハとヘンデルの音楽スタイルの最大の違いは何ですか?

バッハの音楽は複雑なポリフォニーと精緻な対位法に特徴があり教会音楽や器楽曲が中心です。

一方、ヘンデルの音楽はより直接的でドラマチックなメロディラインが特徴でオペラやオラトリオといった声楽作品に多くの傑作を残しています。バッハが内面的な表現を追求したのに対しヘンデルはより劇的で外向的な表現を得意としていました。

二人の音楽家の名声はその生涯でどう違っていましたか?

ヘンデルは生前から広く認められ特にイギリスでは国民的作曲家として崇められていました。

対照的にバッハは生前は優れたオルガニストとして知られていましたが作曲家としての真価は19世紀にフェリックス・メンデルスゾーンらによって再評価されるまで広く認識されていませんでした。

ヘンデルは商業的にも成功しかなりの財産を残しましたがバッハの家族は彼の死後、経済的困難に直面しています。

二人の音楽的影響はどのように後世に残りましたか?

バッハの対位法と和声法は後のモーツァルトやベートーヴェンに大きな影響を与え音楽理論の基礎となりました。

「平均律クラヴィーア曲集」は調性音楽の発展に決定的な影響を与えました。ヘンデルのオラトリオの様式はハイドンなど後の作曲家に影響を与え、また彼のドラマチックな表現はロマン派音楽の先駆けともいえます。ヘンデルの合唱技法はイギリスの合唱音楽の伝統に大きな影響を残しました。

幻の出会い:バッハとヘンデルの交差しなかった人生

バッハのヘンデルへの敬意

バッハはヘンデルに会うことに強い関心を持っていたようです。

記録によれば少なくとも2回、ヘンデルに会おうとした形跡があります。1719年にヘンデルがハレを訪れた際と、1729年頃にバッハがヘンデルの公演を見るためにかなりの距離を歩いたというエピソードが残っています。

1719年のエピソードではバッハがケーテンからハレへ旅してヘンデルに会おうとしましたが到着した時にはすでにヘンデルはロンドンに戻るために出発していたといわれています。

1729年にはライプツィヒからハレへ20マイル(約32キロメートル)を歩いて訪れたというエピソードもありますがこの時もヘンデルとは会えませんでした。

こうした出会いの機会を逃したにもかかわらずバッハはヘンデルの音楽を高く評価していました。バッハはヘンデルの作品を自分のアンサンブルのために編曲したり研究したりしていたことが知られています。また、バッハの蔵書目録にはヘンデルの作品の写しがいくつか含まれていたことも確認されています。

ヘンデルからバッハへの評価

ヘンデルのバッハに対する評価については明確な記録が少なくバッハの作品についての直接的なコメントは残されていません。

しかし音楽的に影響を受けていた可能性はあります。例えば両者の作品に見られる「パッサカリア」の主題の使用など、いくつかの共通点からヘンデルがバッハの音楽に親しんでいた可能性が指摘されています。

ヘンデルはドイツの音楽家との交流を維持していたことが知られておりドイツの音楽の発展にも関心を持っていました。若い頃にはハンブルクで当時の著名なオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデに会いその影響を受けていることからもドイツの音楽伝統を尊重していたことがうかがえます。

バッハとヘンデルが出会っていれば音楽史はどのように変わっていたかは興味深い思考実験です。二人の異なる才能と視点が交わることで新たな音楽的発展が生まれた可能性もあります。しかし実際には二人は異なる道を歩みそれぞれの方法でバロック音楽の頂点を極めたのです。

ヘンデルに会ったバッハもいる!?

興味深いことにバッハの息子の一人であるヨハン・クリスチャン・バッハはロンドンでヘンデルに会う機会を得てその作風に影響を受けています。

ヨハン・クリスチャンは「ロンドンのバッハ」とも呼ばれ古典派様式の先駆者となった作曲家です。

ヨハン・クリスチャン・バッハは父の死後にイタリアに渡りカトリックに改宗してミラノ大聖堂のオルガニストとなりました。その後、1762年にロンドンに移住し当地でオペラ作曲家としての地位を確立しました。彼の音楽はヘンデルの影響を受けつつもより古典的で明快なスタイルを発展させ若きモーツァルトに大きな影響を与えています。

J.S.バッハ自身はヘンデルに会う機会がなかったとしてもヘンデルの音楽がバッハ家に永続的な影響を与えたことは間違いありません。このようにして直接会うことはなかったものの二人の音楽家の芸術的交流は次世代へと受け継がれていったのです。

バッハとヘンデルの対照的な人生航路

ヘンデル:国際派の音楽起業家

ドイツのハレに生まれたヘンデルは幼少期にハンブルクに移り住みオペラハウスで働きました。

その後、18世紀初頭に当時のオペラの中心地であったイタリアに渡りイタリア風の様式を吸収して人間の声のための作曲技法を磨きました。

1710年、イギリスに渡ったヘンデルはやがてイギリスに定住し帰化します。

彼の音楽、特に「メサイア」などのオラトリオはイギリス人の好みに合いその名声は着実に高まっていきました。ヘンデルはビジネス感覚にも優れ自らの音楽を商業的に成功させる才能も持ち合わせていました。時には経営的な危機に直面することもありましたがその度に新たな作品で人気を取り戻しました。

ヘンデルの人生は波乱に満ちたものでした。1737年には過労による脳卒中で右半身が麻痺し一時は作曲活動ができなくなるという危機に直面しました。また、オペラ事業の経営不振で何度か財政的危機に陥りましたがその都度立ち直り最終的には相当な財産を残して亡くなりました。

ヘンデルは生涯独身を貫き私生活についてはあまり多くが知られていませんが親しい友人も多く社交的な性格だったと伝えられています。彼は食べることが大好きでレストランで多すぎる注文をし「私はただ一人で食事をしているだけでサービスを受けるために支払っている」と言ったというエピソードも残っています。

バッハ:地域に根ざした音楽教育者

一方のバッハは生まれ故郷のアイゼナッハから遠く離れることなくドイツ国内の各地を転々としながら活動しました。ヴァイマル、ケーテン、そしてライプツィヒと音楽家やカペルマイスター(楽長)として働きましたがヘンデルに比べると彼のキャリアは地域的なものでした。

バッハはライプツィヒのトーマス教会のカントル(音楽監督)として教会音楽の指導や作曲、聖歌隊の教育など多岐にわたる職務をこなしていました。また、自宅で多くの弟子を育て教育者としての側面も持っていました。バッハの20人の子どものうち、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・クリスチャンなど何人かは優れた作曲家となり父の音楽的遺産を受け継ぎました。

バッハは二度結婚し多くの子供に恵まれました。最初の妻マリア・バルバラとの間に7人、二番目の妻アンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけましたがそのうち10人は幼少期に亡くなっています。これは当時としては珍しいことではなく高い乳幼児死亡率を反映しています。バッハは家庭を大切にし子供たちの音楽教育にも熱心だったことが伝えられています。

バッハはライプツィヒ市当局や教会当局との軋轢も経験しました。彼が求める音楽的水準と現実の条件との間のギャップに悩むことも多く、1730年には待遇改善を求める嘆願書を提出しています。しかしそうした困難にもかかわらずライプツィヒでの27年間は彼の最も充実した創作期間となりました。

対照的な評価と後世への影響

ヘンデルは生前から広く知られ死後もイギリスを中心に人気を博したのに対しバッハの音楽的貢献は当時あまり評価されませんでした。バッハは19世紀にフェリックス・メンデルスゾーンなどの作曲家たちによって再評価されるまでその真価は認められていませんでした。

ヘンデルはウェストミンスター寺院に埋葬され死後もイギリスで定期的に彼の作品が演奏され続けました。特に「メサイア」は死後も人気を保ち今日に至るまで毎年クリスマス時期に世界中で演奏されています。

一方、バッハの死後、彼の作品の多くは出版されないまま忘れられていきました。しかしモーツァルトやベートーヴェンといった後の作曲家たちはバッハの対位法の技術を学びその影響を受けています。1829年にメンデルスゾーンによって「マタイ受難曲」が再演されたことをきっかけにバッハの音楽が再発見され徐々に評価が高まっていきました。現代ではバッハとヘンデルはともにバロック音楽の巨匠として同等に評価されています。

「二つのB」:音楽史における位置づけ

バロック音楽の集大成と革新

音楽史においてバッハとヘンデルは「二つのB」(「3つのB」はバッハ、ベートーヴェン、ブラームスを指す言葉ですが)と呼ばれることもありバロック音楽の集大成を象徴する存在です。

バッハはバロック音楽の技法を極限まで追求しその複雑さと精緻さにおいて類を見ない境地に達しました。一方、ヘンデルはバロックの枠組みの中で新しい表現方法を模索し特に声楽作品においてドラマティックな表現を追求しました。

バッハとヘンデルの両者ともそれ以前の音楽伝統を受け継ぎながらも独自の発展を遂げました。バッハはドイツのプロテスタント教会音楽の伝統を継承しフレスコバルディやブクステフーデなどのオルガン音楽の影響も受けています。ヘンデルはイタリアのオペラの伝統を吸収しそれをイギリスの聴衆に適応させる形で発展させました。

二人の音楽には時代の変わり目を感じさせるものもあります。

特にバッハの息子たちの世代になるとバロック様式から古典派様式への移行が始まります。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの感情豊かな「感傷様式」は後のハイドンやモーツァルトの古典派音楽につながっていきます。

バッハとヘンデルの現代での受容

現代においてバッハの音楽は特に音楽理論やクラシック音楽の基礎を学ぶ上で欠かせない存在となっています。ピアノ学習者がまず取り組む「インヴェンション」や「平均律クラヴィーア曲集」は音楽教育の基礎として広く用いられています。

バッハの音楽はジャズやポピュラー音楽にも影響を与えジャック・ルーシェなどのジャズミュージシャンによるバッハのジャズアレンジやウェンディ・カルロスによる「スイッチド・オン・バッハ」のようなシンセサイザーによるアレンジも広く知られています。また、バッハの「G線上のアリア」や「主よ、人の望みの喜びよ」などの旋律は映画やCMなどでも頻繁に使用されています。

ヘンデルの音楽は特に「メサイア」のようなオラトリオがクリスマスシーズンなどに世界中で演奏されています。「ハレルヤ・コーラス」は結婚式や祝典の場でも頻繁に使用されクラシック音楽に詳しくない人にも親しまれています。

また、「見よ、勇者は帰る」や「オンブラ・マイ・フ」などのアリアはオペラ歌手のレパートリーとして人気があります。

現代の演奏実践と解釈

近年の古楽復興運動の中でバッハとヘンデルの音楽は当時の楽器や演奏様式に基づく「歴史的演奏法」で演奏されることが増えています。これにより作曲当時の響きに近い形で両者の音楽を楽しむことができるようになりました。

ニコラウス・アーノンクールやジョン・エリオット・ガーディナーといった指揮者は歴史的演奏法に基づくバッハの演奏で知られています。また、グスタフ・レオンハルトやトーン・コープマンなどのチェンバロ奏者もバッハ作品の演奏で重要な貢献をしています。

ヘンデルの作品ではウィリアム・クリスティやニコラス・マギーガンなどが歴史的演奏法に基づく解釈で注目を集めています。

一方でグレン・グールドのバッハ演奏のように現代の感性で解釈し直す試みも続けられています。グールドの「ゴルトベルク変奏曲」は伝統的な解釈から大きく離れた革新的なものでしたがバッハ演奏の新たな可能性を示すものとして多くの人に影響を与えました。

ヘンデルのオペラも近年、セシリア・バルトリやフィリップ・ジャルスキーといった歌手によって復活上演されています。

バッハとヘンデルの音楽は時代を超えて様々な解釈や演奏法で新たな魅力を発見され続けているのです。これは両者の音楽が持つ普遍的な価値と芸術的深みを示すものといえるでしょう。

知られざるエピソード:バッハとヘンデルの音楽生活

バッハの日常:多忙な教会音楽家の生活

バッハの日常生活は非常に多忙なものでした。

ライプツィヒのカントルとしての職務には教会での礼拝音楽の準備と指導、聖トーマス学校での音楽教育、市の公式行事のための音楽提供などが含まれていました。彼は週に少なくとも2つの教会(聖トーマス教会と聖ニコライ教会)で音楽を担当し日曜日と祝日には特別な音楽が必要でした。

バッハは優れた即興演奏家としても知られていました。オルガンの演奏試験の審査員を務めることも多く楽器の評価にも優れた洞察力を持っていました。また、楽器の修理や調律にも精通していたといわれています。

彼の家庭生活も活発で妻アンナ・マグダレーナとともに家庭音楽会を催すことも多かったようです。「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」は、バッハが妻のために編んだ小品集で家庭での音楽教育や娯楽のために使われていました。

バッハの給料は当時としては標準的なものでしたが多くの子供を養うには十分ではなく追加収入を得るために個人レッスンを行ったり楽譜の筆写や楽器調律などの仕事も請け負っていました。彼の蔵書目録には音楽書だけでなく神学書や科学書なども含まれており幅広い知的関心を持っていたことがうかがえます。

ヘンデルの社交生活:ロンドン上流社会との交流

ヘンデルのロンドンでの生活はバッハとは対照的に華やかな社交生活を含むものでした。彼はロンドンの上流社会に受け入れられ貴族や富裕な市民たちとの交流を通じて自分の音楽事業を発展させていきました。

ヘンデルは自分のオペラ制作のための企業「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」を立ち上げ株主から出資を募って運営していました。これは当時としては革新的なビジネスモデルでした。彼はイタリアから一流の歌手を招聘し高額な契約金を支払うこともありました。

ヘンデルの食への興味は有名で彼の食欲に関するエピソードはいくつも残っています。あるレストランでは3人分の食事を注文し「いつ他の方々はいらっしゃるのですか?」と聞かれると「彼らが来るまで待ってほしい、私はすぐに食べ始めるから」と答えたという逸話もあります。

ヘンデルは気性の激しい面もあったようです。リハーサル中に歌手が思い通りに歌わないと激怒し時には「窓から投げ出すぞ」と脅したこともあったといわれています。しかし基本的には寛大で友好的な性格で多くの友人に恵まれていました。

ヘンデルは慈善活動にも熱心で「メサイア」の初演はダブリンで慈善コンサートとして行われました。また、ロンドンの捨て子養育院のための慈善演奏会も定期的に開催しその収益は施設の運営に充てられました。彼の死後、遺産の多くは甥や姪、そして慈善団体に寄付されました。

Q&A:バッハとヘンデルの個性と生活スタイルの違いは?

バッハとヘンデルの性格や生活スタイルの違いはどのようなものでしたか?

バッハは家庭的で信心深く多くの子供に囲まれた家庭生活を送っていました。

一方、ヘンデルは独身を貫き社交的で国際的な人脈を持ちビジネス感覚にも優れていました。

バッハが教会や学校で日々の職務に忠実だったのに対しヘンデルはより起業家的な活動を展開していたといえます。

まとめ

バッハとヘンデルは同じ年に生まれ同じドイツ出身でありながらまったく異なる道を歩んだ二人の音楽家でした。

バッハは地域に根ざし教会音楽を中心に複雑なポリフォニーを追求しヘンデルは国際的に活躍して声楽作品で名声を博しました。二人は生涯一度も会うことはありませんでしたがお互いの音楽を尊敬していたと考えられています。

バッハの音楽は内面的で複雑、精緻な対位法と深い信仰に基づいた表現が特徴でヘンデルの音楽は外向的でドラマティック、直接的な感情表現と壮大な効果を持っています。

二人は異なるアプローチで音楽を創造しましたがどちらもバロック音楽の頂点を極め後世に大きな影響を残しました。バッハとヘンデルの物語はまるで交響曲のように並列と対照の動きを持ちながら音楽の豊かな世界を築き上げたのです。

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